RHEINGOLD ラインゴールド


「ママは父親代わり(Mama war der Mann im Haus)」にはママはママじゃいけないのかと思うけれど、ジワ・ハジャビはカター(長じてエミリオ・サクラヤ)にとっては、フセインの弾圧下では子らに歌を教える先生となり銃を手に戦士となり(と伝え聞く…当時彼はお腹の中だから)辿り着いたドイツでは這いつくばって働き教育費を払ってくれた母親ラサル(モナ・ピルザダ)だけが親だったのである、ピアノを与えてくれその名声で一家をフランスに渡らせることのできた父エグバル(カルド・ラザーディ)でも、食事をふるまいクルド人犯罪ファミリーに迎えてくれた「イェロおじさん」(ウグル・ユーセル)でもなく(カターには人殺しができない)。あれだけもらった紙幣を一枚もよこさない父に出て行かれた後、ポルノのコピーで稼いだ金を母親に渡すも目の前で破かれた時、作中初めてジワからラップが流れ出る。男社会で女達のために金を稼ごうとするもうまくいかない、というのが始まりだ。

シスター・エヴァ本人が演じるエヴァに「悪い意味でやばいけど、いい、リアルだから」と言うように、カターにとってはリアルなことに価値がある。確かにあの「本物」のMVの魅力は他になく心躍らせる。アキンによるドキュメンタリー『クロッシング・ザ・ブリッジ サウンド・オブ・イスタンブール』(2005)ではイスタンブールで生まれ育ったヒップホップミュージシャン達が「ギャングなんてアメリカにしかいない、おれ達はあんなことは歌わない」「歌やダンスでドラッグの誘惑から逃れてほしい」などと話しており心に残ったものだけど、人生によって…この場合、転々とするかしないかによって…リアルが違う。またイスタンブールの彼らは「女を歌うのは遊び」と言っていたものだけど、カターの場合は刑務所で彼女のpussyは…と作詞しているところへ母親の幻が現れて諭してくれるのだった、女で歌詞を遊ぶなと。これには全く「男の子」だなと思うけども。

(ちなみに作中おじさんの家のテレビに『クロッシング・ザ・ブリッジ』より歌うミュゼイイェン・セナーとサズを弾くオルハン・ゲンジェバイが映る。同作のクライマックスと言える部分を担っているディーバ、セゼン・アクスのMVも流れるが、彼女を見聞きしているおじさんがトルコ人クルド人の女を店に入れるな、大変なことになるなどと言うのが可笑しい…と思っていたらそれ絡みで人が殺されるのだった)

「ラインゴールド」(ワーグナーの『ラインの黄金』)とは忍び込んだボンのオペラハウスで父が語る「人を不滅にするもの、人が手にしたら二度と離さないもの」。これはカターにとってのそれは何だったかが分かるまで、それを手に入れるまでの物語だが、エピローグとして、生まれて初めての記憶がディズニーランドだという娘に「なぜ犯罪を犯したの」と聞かれた彼が自分の最初の記憶は刑務所だ、犯罪を犯したのは大昔のことだと返す場面(これがこの映画のテーマでしょう)と実在化させた(と彼が語る)黄金のありかが示される。穿った見方をすれば、「葬式を出せるような人々」=おれ以外の世界から少しずつ奪ったものでおれには必要ないものを作ってしまったわけだから洒落が効いている。アキンらしい一定のリズムと凄いスピード、地に足付いた視点と全編に流れるユーモアに魅了され、うっとり見終わった。