母の聖戦


原題は『市民』、これが的確。タバコを吸わざるを得なくなった、そして今も吸っている女性がふと救われる(「何」によってかは何とも言えない)あのラストシーンは、映画が終わって出る「シエロのモデルになった女性達に捧ぐ」に繋がっている、つまり彼女達に捧げられているんだろう。リアルな二時間超の後の曖昧なこここそに、テオドラ・アナ・ミハイ監督から彼女達への思いという「現実」が最も表れているように思った。

冒頭「パパの言いなりになってばかり」と娘に言われていた母親シエロ(アルセリア・ラミレス)が、もう誰の言いなりにもならないと心に固く決めてやり抜く話である。序盤に打ちひしがれて帰宅した彼女は飼っているトカゲを手にかけようとするも思いとどまる。自分の手の内にあるものに当たるのではなく自分を潰そうとするものに立ち向かおうと決める瞬間である。彼女は葬儀屋のオーナー、息子をさらわれみかじめ料を取られている小売店主、夫に聞かないと車を貸せないと言う向かいの家の母親といったどうしようもなく誰かの言いなりになっている女性達から少しずつ協力を得て前進する。それは彼女の強靭な横顔に集約されていると言っていいが、彼女自身は借りた力について振り返りはしない、そんな暇はない。

シエロと協定を結んだ軍は彼女の集めた情報を元に犯罪が行われている場に何度も踏み込むが、末端の犯罪者に暴力を振るう、時には殺すというその場限りのことしか行わない。責任者である中尉とシエロが一緒に収まっている場面の、全くもって何も繋がっていない感じがすごい。見ながらふと、主人公シエロを表すなら「孤高」だが一般的に使われているのとは意味合いが違う、いや本当は孤高ってこういう地味なものなんじゃないか、あるいは実はこのような在り方を表す言葉が無いのではないかと考えた。