成功したオタク


「自分と同じような人が大勢いると知って安心した」とのオ・セヨン監督の言葉にそうか、そういう繋がりって大事だよねと見始める。彼女は自分と同じような人…「推し」に性犯罪者になられてしまった人、変な日本語だな…のことを친구=友達と言う(同じ意味とされる言葉でも文化によって意味や重みが違うからだろう、字幕には1割程度しか反映されていない)。친구以外は殆ど出てこず、彼女自身の心もほぼ決まっており(こんなに作り手の嘆息を聞く映画ってない・笑)確認作業を見ているようで違和感を覚えた。「彼もただの男だったのか」という、それだけ聞いたら何とも俗な言葉も出てくるが、実際これは「男性問題」なので、もう少し色んな視点が欲しかった。

「성덕(「成功したオタク」の略語、原題)」と同じ名前のお寺に来たよ!なんて身軽さゆえ、同世代である若い女性達の顔(性犯罪の加害者である「推し」と擁護するファンを強く非難する一人を除く)や声が引き出せたのだろう、トークの場面は活き活きした魅力に満ちている。「素面じゃ話せない」(というのにも、そういうものなのかと思う)のでヨーグルトマッコリを作るくだりの、スーパーでの「プレーン(ヨーグルト)は味がない」という会話がやけに心に残った。

チョン・ジュニョンを加害者と報道した記者に憤ったことを日記で思い出した監督は彼女に連絡を取る。친구ではない相手と向かいあうことで話が進む。似たようなものだと指摘されて向かったパク・クネの支持者の集会に出向くくだりには世界が広がった感を受けるが、ハガキ、書くんだ?と驚いてしまった。そんな、自分の信念と異なる、誰かに、社会に影響を与える行動ができるのかと。

最後に登場する、実は친구であった監督の母親の話に私が笑ってしまった(満席に近い場内にも笑いがあふれていた)のはなぜだろう。チョン・ジュニョンにつき「彼はガリガリだからもう一人の方がいい、親だから、婿にするならという目で見てしまう」なんて、ああいう気楽さの表出は時に私達を悲惨な現実から救ってくれるものだろうか。何も長続きしなかったあなたが推し活は続いたんだから、と母に言われた彼女は推し活のよい面に目を向け、よき推し活のために何が必要か考える。しかしこんなにきれいにまとまってしまうなら、一人のオタクを描く劇映画(フィクション)の方が私は見たかったかな。