行き止まりの世界に生まれて


そうなんだよね、山の映画やスケートボードの映画はカメラマンもその達人なんだよね、しかもこの映画は撮影している監督が仲間なんだよねと見始める。ロックフォードをスケートでゆく青年達は、街中に人どころか車もまばらなためか(早朝だからかと思いきや後の真昼間の場面でも同様である)異なるレイヤーに存在しているように見えた。しかし後に映される施設に残されたスケートの跡が、彼らが確かに街に生きていることを示していた。ちなみに終盤映るスケートの跡はキアーが購入した車の後部をレッジとして自分で付けたものである、まるでサインのように。

強い日差しの下のカメラを持つ腕の影から父親の抑圧に地面に転がるキアーに差し伸べる手など、監督であるビンと皆の関わりが序盤より映像内にごく普通に存在している。様々な形の自撮りで登場もする(これがなかなかいい)。終盤にはキアーに「ぼくが君を撮るのは同じように父親に暴力を受けた自分に重ねているからなんだ、この映画はぼくのためのセラピーなんだ」と明かす。映画の終わりに映像と文で示される彼、彼女らの現在が、この映画を作った効果によるものだったらいいなと思う。

荒涼とした(そのように撮られた)とある家の中で、監督の異父弟が「閉め忘れると殴られた」と父親が死んだ今も全てのドアを閉めて回っている。監督が殴られて恐ろしい声をあげていたのがトラウマになったという話もする。この辺りから明確に、この映画が家庭内暴力を扱った作品であると分かってくる。

監督は「今日は撮られる側に回る、ぼくのリアクションを撮ってほしい」と先の実家で母と向かい合う。ここでは彼女は夫の暴力の被害者であり彼の暴力から子を守らなかった加害者であり、監督の方は被害者であると同時に「女性の暴力被害が多すぎる」と認識する大人である(後者でもあることは、ニナとの会話からだけじゃなく、ザックの「そんな女は殴られて当然だろ」の後に母が首を絞められた話を聞いた時の自身の顔に切り替えていることからも分かる)。「思い出さないようにしても意味がない」と言う母と監督はカメラの前で心の内を晒し続ける。

この映画は結果的に、家庭内暴力が表に出にくい理由を述べることにもなっている。当人や仲間は「浮気した後に踏み込まれた」「暴力を振るった後に怒声を浴びせられた」といったような場面ばかりを話したり録画したりして強調するし、被害者は事を荒立てるのに及び腰になる。そんな中、監督は自身の異父弟の姿に始まり暴力の跡を少しずつ掬って捉える。ザックやキアーの話、ニナの傷や証言、カメラの外から「もう五分経ったぞ」と恋人に口を挟まれた時のキアーの母の顔。

助手席のニナに監督が「なぜ君に暴力を振るうのか、ぼくが彼に聞いてみようか」と訊ねる場面には衝撃を受けると同時に嬉しかった(映画を作っている時だって、人間は目の前の誰かにああして働きかけるものだと思うから)。しかし、もしも監督に一つ質問できるなら、彼女が断った後の「だけど」でちょうど当のザックが戻ってくるのはまるで脚本のある映画のようだったけれど、それに続けて何と言おうとしていたか知りたくなかったのか、後で聞く機会は無かったのか、敢えて聞かなかったのか、知りたく思う。