シリアにて


「換気の悪さに息が苦しくなる映画」というのがある。近年じゃあれもそうだった、と思い出してみればこれも元シリア兵の監督がシリア人移民・難民の労働者を描いた「セメントの記憶」だった。本作では窓を開けてもいるし換気扇だってありそうだけど、セリフで説明される臭いトイレ、鍋を焦がしての火事寸前、砂だらけの床と息が苦しくなる。そんな閉塞感の中、突然侵入してきた男達の手によって一気に、本当に一気に開く、あのいわば風穴の暴力性。

市街戦の只中のとある共同体の、ある朝のタバコから次の朝のタバコまでを描いた、繰り返される日常の物語である。家を仕切る母親オーム(ヒアム・アッバス)は「私の家なのになぜ出ていかなきゃならないのか」と粘っている。他の者の心の内は色々で、遊びに来ていたところが帰れなくなった娘のボーイフレンドなどは当初一緒に閉じ込められていることを楽しんでもいる。しかし例えば、一番下の息子が祖父を針で刺すのは追いかけっこの楽しみを求めてというより心の辛さからに思われた。

部屋を爆撃され避難してきているハリマ(ディアマンド・アブ・アブード)の「あなたを尊敬しています、勇敢な女性ですから」へのオームの「皆そう」とは、ただの「皆」だったのか「女性は皆」だったのか。字幕に反映されていないということは前者なのか。後にハリマはオームの勇敢から程遠いふるまいを非難するが、「自分を迎えに誰かを寄越すそうです」に「無責任だ」と責められた少年が言うように「悪いのは戦争」なんだから心の行き場が無い。

しかしこの映画を見ながら引っ掛かったのは、暴行する男はあんなにもたもたしていないに違いないということ。作り手の優しさ…ではないよね、ああいうのは。