パスト ライブス 再会


「移民でカナダに来た時は泣いてばかりだったけどそのうち泣くのをやめた、誰も私に関心なんてないと分かったから」に、冒頭の「24年前」にナヨン(英語名ノラ、長じてグレタ・リー)が泣いていたのはヘソン(長じてユ・テオ)が気にしてくれていたからなのかと私が泣いてしまった。その優しさの記憶こそが彼女の内にずっとあった「韓国」なのだ。

この映画ではノラを韓国へ連れ戻す力と彼女がそれに抗う力とが拮抗している、静かながらもずっと。風に吹かれてマンハッタンへ到着した時には気づかずとも、彼女の中には常に韓国(あるいはソウル)がある。それをくれたヘソンと再び繋がった彼女が通話のために自室に戻る足取り、話すさまは12歳の頃のようだ。しかしその後、移民の理由を問うたヘソンの母に「何かを捨てれば何かが手に入る」と返した母と同じく、ノラも何者かになるためにいわば後ろ髪を断ち切る。再会時の「私達はもう大人」「あの時の少女は20年近く前にあなたの元に置いてきた」などは、口にすることで効力を発揮する類の言葉だ。

「彼といると自分が韓国人らしくないと感じる、いやむしろそれが私が韓国人ってことなのかも」とは言い得て妙。兵役の昼食時に初恋の人を思い出し、同居の母に二日酔いの翌朝もやしスープを作ってもらい、男同士飲み屋でくだを巻き、ソファの前の床に座る、そしてご飯食べた?と尋ねる(もしやと持参してもいる!)ヘソンは「古きよき」(ノラいわく「男らしい」)韓国そのものである。どうして泣くの?と登場する彼には彼女にとって自分が何か分からなかったかもしれないが、再会の二日間で、彼女は何者か、自分は何者かが分かったはずだ。

映画の終わりにノラが階段を上る姿は、自分の道を自分で決めることの表れだ。しかし、あの日少女の彼女が階段を上った先にいたのが今の夫であるアーサー(ジョン・マガロ)なのだと互いに分かっていても、彼のような立場の者は、「初恋の人」が現れようと現れまいと、自分は相手のimmigrant dreamにふさわしいかと自問することになる。そうした幾つものどうしようもなさが優しい目線で描かれている。二人のラストシーンは、ノラにとっては泣ける相手が、アーサーにとっては自分の前で泣いてくれる相手がいるということだろう。彼女の「韓国」にあったものは異国の地にもあった。