BELUSHI ベルーシ


「ジョンと知り合って世界が広がった、彼を見ていると皆何かをやってみたくなる」というジョン・ベルーシのパートナー、ジュディス・ベルーシ・ピサノの作中での弁に、オープニングに流れたSNLのためのテスト映像での得意の眉毛芸を見ながら客席で思わず挑戦していたものだから頷かされた。ジョンが「用心棒」の三船敏郎に「サムライ」を生み出したのも元はそういう衝動からなんだろう。そういう、何らかの源となる人間というのがいる。

エンドクレジットにジュディスのみ「very special thanks」とあったけれど、ジョンの荒廃した面につき「友人には非日常だが彼女には日常」だったのだから(例えば映画のプレミアにリムジンで向かう際、会場に着いたら彼女が彼をとんとんと叩いて知らせなければならなかったのだそう)、人々の声で紡がれるこの映画のかなりの部分が彼女の語り(とジョンからの大量の手紙)で占められるのはさもありなんだ。彼女の「長い間かけて心の整理をつけることができた、自分を責めないようになった」という言葉に、だから死後これだけ時間が経ってからこのような映画が作られたのかなと想像した。

ジュディスは勿論SNLの初代レギュラーだったジェーン・カーティン、ホストを務めたキャンディス・バーゲン、友人(とクレジットされる)ペニー・マーシャルキャリー・フィッシャーなど女性の語りも多く見易かった。薄々予想していたけれど、少なくともSNL時代のジョンは、番組最初の女性作家の一人だったアン・ビーツいわく「『女は面白くない』と女性の脚本を拒否していた」んだそう(こうした悪い面が「ゴーストバスターズ」の現在に引き継がれているように思われ残念だ)。こういうことは皆が笑顔で写っている写真、時に番組そのものからも分からないものだ、誰かが言わない限り。ジョンが撮るも「全員がこれはだめだと却下した」、プールサイドで「美女」に囲まれるだけの短編の図も相当どうかしている。

番組を見ていたわけじゃないけれど、私にとってSNLのコメディアンといえばベルーシに憧れたクリス・ファーレイらの世代なので、その憧れの内実、黎明期はどうだったかということが超駆け足だけども映像で見られたのがまず面白かった。尤も幼い頃から自分で企画を立て仲間を集め主役を務めてきたので人の指示に従うのは嫌だと当初ははねつけたジョンの視点が主だけども(ナショナル・ランプーンのラジオ番組への出演はジュディスの紹介、SNLも彼女に説得されての参加だったとは知らなかった)。ローン・マイケルズの「選ばれたことを光栄に思う者と組みたかった」との言には少し衝撃を受けた。

3歳の頃から近所の家を訪ねてはショーをやっていたアルバニア系移民の二世の少年が、夕食の席、学校の教室などを経て、舞台、ラジオ、テレビとその場をより広い世界…「アメリカ(の居間)」へと移していく。破壊的なところが庶民に受けたと言うのは破壊の欲望が無い私にはぴんとこなかったけれど、「アメリカにおけるギャングとは移民が規制を破って夢を叶えるもの(だから共感を呼ぶ)」と聞いてギャングものに入れ込めない理由がよく分かった、前半については日本に日本人として生きる自分は超マジョリティであり、後半についてはそもそも女にはそれが出来ないからだ。

「ただ暴れているように見えてしまい努力していることが伝わらない」と話していたのはジョン・ランディスだったか、ジュディスは「ありのままの自分を出すことができていれば彼は破滅しなかった」と言っていたけれど、人々はメディアに出ているジョン=真実のジョン、とした上でその揺らぎや変化を拒否したのだろう、彼を「アメリカの客」とする見返りみたいに。蔑ろにされていると感じ別居を決めたジュディスに対し、他の男…自分の父親と比べて「I am better」と言ってくる男なんてろくなもんじゃないと思うも、パートナーに本音をぶつけたいという気持ちはとてもよく「分かる」。それがもっと広い世界に向けて出来ていたならと思わずにいられなかった。