
オープニングに「Still Life」と出てこういう題だったのかと思うも、それからずっと、主人公ジョン・メイ(エディ・マーサン)の、死人とばかり付き合っている、あるいは「(死んだ人間を)追い掛けている」ようにも見える日常が描かれる。様々な宗教の葬儀に定位置で出席し、一人のオフィスに向かう。オフィスも自宅も同じような、過ごしやすそうだが病院のような、いわゆる「生活感」の無い部屋だ。
(以下直接的な「ネタばれ」は無いけど、見るつもりなら読まない方がいいかも)
遺品から趣味や旅行先を割り出し弔辞を書き、身内や知人に電話で連絡を取り、おそらく殆どの場合は一人で葬儀に出席し、「写真」をアルバムに収めて「終了」していたジョンが、向かいの部屋に住む「ビリー」が亡くなった際には(同じ間取りでも「違う」部屋の面白さ)、解雇された事も手伝って「終了」には出来ず、調査に発つ。
列車に乗りオーカムに足を運ぶと、作中初めての暖色、ピンクめいた階段を背景に、もしかしたら初めて聞く「あいつとは親友だった」。ビリーの娘ケリー(ジョアンヌ・フロガット)との「親はもういないのね」「悲しいですね、誰もが通ることですが」のやりとりの際にジョンの目に溜まる涙、その後の、もしかしたらこれも初めて聞く「ありがとう」。後に「誰も」に彼自身も含まれていたと分かるのがうまい。
画面の中にエディ・マーサンが一人だけ、という時間が幾度となくある。誰かとのやりとりの切り返しの時もあるけど、「ただ一人」の時も多い。いずれの場合もカメラは距離を取って彼を見つめる。作中唯一の類の笑顔をこちらに向かって見せるのが「犬」に対して、というのがいい。
終盤、ケリーと再び会って葬儀の曲やお墓の場所(元は彼自身のために用意していた場所)について語る時、作中初めて、顔があまりに相手に近くて不安を覚える。次の場面で電車に乗り発車を待つ彼女にホームから語り掛ける時も、明らかにアップが過ぎ、背後の掲示物も歪んで見え、また不安になる。エディの顔面力が存分に発揮されている箇所だ(笑)
変化は「食」に表れる。「ビリーの小便」の歴史を持つ豚肉のパイを皮切りに、15分遅れの電車を待つ間に頼んだ紅茶が店員の言葉でココアになり、毎夕の魚の缶詰は、フィッシュ&チップスの店でもらった生の鱈を切っ掛けに料理した魚に変わる(食べ終えた骨を画面の端に入れる、撮影の上品さよ)。ハーゲンダッツのトラックから転げ落ちた、恐らくめったに口にしないアイスクリームを食べる姿には、食べる為に生まれたものなら食べてやらなくちゃとでもいうような気合いを感じた(笑)
これらには「運動」がついて回っている。じゃがいもの袋を運んだり、トラックを追い掛けて一走りしたり。体を動かすごとに何かが変わる。
見ながら、事前に流れた「パレードへようこそ」の予告編を思い出していた。サッチャー政権下に職を奪われた者達の話といえば、本作の監督であるウベルト・パゾリーニがかつて制作した「フル・モンティ」と同じだから。30年が経ち、当時ティーンエイジャーだった本作のジョンが今になってその「真似」をしてみるビリーや仲間は、あの時代を生き抜いた人々なのだ。予告の最後に聞いた「巨大な敵と闘っている時に/どこかで見知らぬ誰かが応援していてくれると思うと/最高の気分です」という言葉は、この映画にだって当てはまるんじゃないか?