マイ・ファースト・ミスター/ドント・シンク・トワイス


特集上映「アメリカ映画が描く『真摯な痛み』Vol.2」にて、「マイ・ファースト・ミスター」(2001)と「ドント・シンク・トワイス」(2016)を観賞。「新たな気付きを得る」「我が身を振り返る」ことが、30年映画を見てきて尚できることの素晴らしさ、幸せよ。



▼「マイ・ファースト・ミスター」は少女「J」(リーリー・ソビエスキー)と中年男「R」(アルバート・ブルックス)の交流を描く、女優クリスティン・ラーチ監督作品。


少女の顔、その強い目を映すショットに続く冒頭の授業の場面における、Jが双眼鏡を目に当てたり、教師やクラスメイトを実際と違うふうに見たり、指名から逃れようと体を動かしたりといった他愛ない描写の数々にふと、これら全ての行動は、見るということに真面目だから、逃げていないからそうするのだと思った。故に彼女は生きづらい。


「手を伸ばす」ことから始まるJとRの出会いにおいて、彼女が何気なく口にした「ビール腹おやじ」という言葉に「ちゃんと見て言ってるのか?」とばかりに食いついてくることから、彼は見ることだけでなく言葉を使うことにも真面目なのだと分かる。私にはこれは、見ることと言葉を使うこと、真面目に生きる時に真面目にやるべき二つのことについて描かれている映画にも思われた。


「恋人」という言葉っていいな、と口で転がしてみるJには言葉についての真面目さの萌芽もあるが、まだ幼い。そこで先人のRは狼少年の話をするのだ、「言葉を死なせるな」と。Jの母親に彼女のことをよく言うのは、自分の病気について「言葉にしなければ現実にならないと思った」と言うのと同じ、すなわち逆、つまりそう言うことでそれを信じていると表明する、だけでなく、現実にしようとしているように思われた。


JもRに影響され、見ることだけでなく言葉を使うことにも真面目になってゆく。手紙の住所へ車を飛ばした先で「うまく話せるかな」と練習する(が、不意打ちの状況に名乗る前に「あんた誰?」と言い放ってしまう・笑)姿や、その相手のRへの「質問していい?何を話せばいい?」なんてセリフに我が身を振り返る。私はこんなふうに、誰かとの関係を大事に思って喋っているかなと。


Jの母親の再婚相手のボブ役にマイケル・マッキーンジョン・グッドマン演じる実の父親など「関係者」が勢揃いする食卓の場面には、確かにある種の「アメリカ」があった。ボブはRと正反対で、家族の話を聞くことすらしない人間だが、最後には皆で食卓を囲む。ちぐはぐなペアが出来、笑顔が生まれる。



▼続けて「ドント・シンク・トワイス」を見ていたら、「井戸」から抜け出した仲間について検索するケイト・マイカッチのTシャツに、「マイ・ファースト・ミスター」の最後にリーリー・ソビエスキーが乾杯した「friends」「forever」とある。ここであっと思い、どちらも友情についての話なのだと気付いて見ることができた。


「ドント・シンク・トワイス」は即興コメディ集団「コミューン」の面々の一か月を描く、マイク・バービグリア監督作品。


「コミューン」のメンバーが四六時中意識している人気番組の描写に、SNLってこんな感じなのかな、とは特に思わず、私にはこれは、コメディアンという人種を描くSFのようにも見えた。番組中のELELの演奏を皆が白けた顔で見る画はまるで、バンドという共同体を結成する異人種に接しているようでもあった。


一人売れたジャック(キーガン=マイケル・キー)が古巣でひょいと前に出たと思いきや、サム(ジリアン・ジェイコブス)の十八番を引き出そうと「あれ?あなたはジーナ・ローランズじゃないですか?」と言うところで涙が溢れた。私も薄々分かっていたけれど、彼女は「井戸」の中でしか生きられない。でもここにただ、愛が発露している。それに泣けた。


結局は道を分かつこの二人だけでなくマイク・バービグリア自身も、「スリープウォーク・ウィズ・ミー」(2012/感想)に引き続き、いわば「セックスし合えてしまう」相手にきちんと対峙する。彼女やその子とやっていこうと決意すること自体ではなく、今の自分にはそれしかすがるものが無いと伝える姿勢(作中の彼女にも、それを見る私にもね)が誠実なのだ。「教え子とセックスする講師」としての描写もとても誠実で、見ていて気持ちがいい。


「スリープウォーク〜」になぞらえて言うならば、ここでは車は共同体の象徴の一つであり、奇抜な(笑)自転車を贈られそこから抜けたジャックを、そのうち黒塗りの車が迎えに来る。それを皆で見送る。見送る機会があってよかった。あの場面、好きだ。