見たら憤死するんじゃないかと心配していたけれど(笑)全然大丈夫だった。だってあんなやつ…ランプトン(トム・ウィルキンソン)が目を見据えて言う「差別主義者」、デボラ(レイチェル・ワイズ)が「イギリスの慣例に従い」黙っていた後に堰を切ったように言う「そのために表現の自由を悪用する人間」…なんてそこらじゅうにいる。自分や他人が傷つかないよう追い払い続けなきゃならないから、憤死してる暇なんてない。
映画の始め、アトランタの「デボラ」・リップシュタットの朝は、出版を終え講演を控え、彼女自身もドッグフードを食べているんじゃないかと思ってしまうほどの慌ただしさだ(…が見ていてくたびれはしない。レイチェル・ワイズってそういう女優だ)。対して終盤の、後は判決を待つばかりの朝は、同じようでも、作ったジュースを陽の光の下でちゃんと飲んでいる。私も喉が渇いていることに気付いて、潤したくなった。
雨のロンドンへ渡ったデボラは、事務弁護士のジュリウス(アンソニー・スコット)の混み合った部屋でコーヒーを配られ、法廷弁護士のランプトンの古めかしい部屋で「さあ火のそばへ」とワインをふるまわれる。弁護士、しかも「英国の」弁護士と、学者、それも「歴史」学者(ジュリウスいわく「歴史学者は構わない、どんな観点に立とうと研究は研究だとね」)というプロ達が入り乱れる話である。そこのところがまず、素人には分からないながら面白い。
冒頭デボラは友人に「アーヴィング(ティモシー・スポール)が嘘つきだと暴かなきゃ」と言う。私達は軽口においては「嘘つき」を単に「事実と異なることを言う人」の意味で使ってしまうことがあるが、学者の彼女は、おそらくいつでも、自身が著書に書いており裁判の争点となる「自身の思想のために証拠を歪めている」という意味で言っているのだろう。素人の私達にもこの点を明確にするため、映画では多少の演出が施されているように思われた。
これはデボラがユダヤ人グループとの席で語る「歴史が書かれている時には出来るだけ多くの人が加わらなければ(だから一人で全額賄うという寄付は断った)」という信念の、違う形での具現化の話だ。「子どもの頃から人の言葉を信用せず、心の内の良心にのみ従ってきた」彼女が、苦しみつつもチームのランプトンにその良心を引き渡し、最後には記者会見で「チームワークの価値を軽視していた」と語る。振り返れば冒頭の、犬を大学に連れて行きスタッフに水を飲ませてやるよう頼む場面だって、一人暮らしの彼女が留守の間にはこの犬、ここで皆と一緒にいたのかな、それだって「チーム」だよねと思わせられる。
補助員のタイラーが、夜なべ仕事に起きたパートナーに「まだ弁護士を目指すつもりなのか」から「ホロコースト、ホロコーストってそいつらはいつまで不満を言ってるんだ」と文句を言われた翌日、ランプトンの部屋で「すてきな裁判でした」と笑顔を見せるのには、「人生はシネマティック!」のジェマ・アータートンがダンケルクの撮影現場に「帰って」来た場面を思い出した。仕事の内容を問わずそんなこと、言わない「仲間」こそが大切なのだ。
衝撃的だったのは、そりゃあこれは「映画」だけれど、当時はサバイバーがまだあんなに若かったということ。そうだよね、20年前なんだから。日本にも現存する大きな問題だ。