映画は幼い頃の記憶に始まる。遅くまで外で遊ぶ姉や兄に対しもう少し本を読みたいと言うシモーヌにあと10分ねと返す母イヴォンヌ(エロディ・ブシェーズ)へ甘やかしすぎだと父が声を掛ける。彼女は家庭内のいわば少数派である。しかし時を経てユダヤ人の一家は全員が少数派あるいは死者となった。共に収容所を生き延びた姉ミルーが夫についてドイツへ行ったシモーヌに送る手紙は心に刻み付けたい名文だ。「私達は全体記憶の中の棘、でも捏造を妨げていかなくては」。妹についての「あなたの言葉は人の心を打つから弁護士に向いている」、作中のシモーヌのセリフの数々に確かにそうだと思わされる。
続く1974年の人工妊娠中絶合法化のための国民議会の場面では、60年代が舞台だった映画『あのこと』(2021)が蘇り、どれだけの間どれだけの女が大変な目に遭ったかと思わずにいられない。男ばかりの中で「おそれながら」といった言葉を前置きとするシモーヌ(エルザ・ジルベルスタイン)の演説と、それに反対あるいは賛成する人々の言葉がかなりの時間を割いて示される。夫アントワーヌ(オリヴィエ・グルメ)は帰りの車中で「君は歴史に名を残す」と言うが、おそらく事実に基づいた議会の場面は、ホロコーストや広島への原爆投下などを持ち出して法案に反対する人々の汚名の記録ともなっている(後に考えを改めているかもしれない、それも大事だけど)。
孫娘は文を認める祖母に手紙?と訊ねる。少女の頃なら文といえばそうなのかもしれない。しかし晩年のシモーヌが書くのは回顧録、すなわち記憶だ。それを現在パートとし激しく時間を行き来するこの映画は最終的にショアに到達する。少数派にして当事者、常に弱い者の声を聞き社会に伝え正義を実行してきた彼女の原点がそこにあると分かる。74年の国民議会の場面において反対派が次は同性婚を認めろとくる、移民の権利を認めろとくる、などと言及していたことからも全ての根が繋がっていると分かろうというものだ。更に映画は最終的に収容所で死んだ母親へと還る。シモーヌは母が拠り所としていた「正義」に生きていたのである。
後年は「ヴェイユの夫」として彼女を見守り支えるアントワーヌの変化の過程が見えなかったのは残念だ。収容所の記憶からベッドで寝られないシモーヌのために床に寝具を用意して「はい、お姫様」とやる(幼い頃の彼女は姉にからかわれ「私はお姫様じゃないし王子様もいらない」と返している)、優しさも知性も備えているがその時代の男性らしくもあり、「妻の支えが必要だから」にフォローも入れず弁護士になることに反対し、自身の仕事机だけを寝室に置く(遅くまで仕事する彼女の方が居間で書類を広げる)彼がなぜあのようになったのか。「(多忙で家にいない母親を)誇りに思ってる」と抱きつく息子を見てというだけでは描写が足りない。