92歳のパリジェンヌ



最後に示される、一枚の写真と「この作品は尊厳死を求めて戦ったミレイユ・ジョスパンの実話を元にしている」との文章にはっとする。確かにこれは一人の女性の戦いの記録でもあった。マドレーヌ(マルト・ヴェラロンガ)が「二ヶ月後に私は逝きます」と告げると、身内が集まるテーブルは徐々に空になってゆく。始めからいなかった者、子どもは追い払われ、息子が立てば妻が続き、孫はスマホに目を落とし、娘は声を掛けてやはり立ち去る。これが世のおよその反応だろう。


オープニング、マドレーヌを迎えたパーティの席に「92歳おめでとう、100までもうすぐ」と飾られている(これが彼女の「背後」にあるのは、「映画的」都合か演出か?)私の祖母も今月に92歳になるので、冒頭しばらくは、ああいうところは似ている、ああいうところは違う、などと見ていたんだけど、自分と同い年の人物が出ている作品をそうして見るならともかく、他人を年齢でまず見るなんてとふと思う。実際全然違うもの。


マドレーヌの家で娘のディアーヌ(サンドリーヌ・ボネール)が見つけた昔の写真に「私の人生、私の体」とある。この映画を一言で言うならそうだ。マドレーヌは人生通じて「活動家」である。孫のマックス(グレゴアール・モンタナ)に描いてもらった「産院廃止反対」の垂れ幕を窓から垂らすのには、彼女が「家」で生きたいと思う理由の一つを見た(「家」は社会に繋がっている)。出産を手伝うのは、(結果的に)不法滞在者に対する国の方針への、「法律なんてまっぴら」な彼女の反対運動でもある。最後に出来るのが、「自分で死ぬこと」。「あと、出来るのは死ぬことだけ」とはまさに「笑える真実」だったのだ。


原題「La derniere lecon」の通り、これは教師としで働くディアーヌが母から教えを受ける物語でもある。それは車の窓を閉めて同居の勧めを拒絶する母の行為と、「私達に決断を迫るなんて」と本人の問題として捉えられない娘の言葉に始まるが、激しく揺れながら、次第に溶け合ってゆく。「その時計はうちには合わない、押し付けないで」なんて「実践」を挟み、「教師」の側も支えられながら。バスタブで二人が寄りそう時、サンドリーヌのしわの数々に、やがて彼女も老いて死ぬのだと安らかな気持ちになった。看護助士に「体を使った」息抜きの仕方を教わるのも面白い。


一方で息子である兄のピエール(アントワーヌ・デュレリ)は母親の「生徒」になれない。マドレーヌの「浮気」が本当ならば、「異性」である彼が「母さんはいつもよそばかり」と頑なになるのも分かるが、ディアーヌの「父さんはいつも強引に連れ戻してた」という言葉から、彼と父とは同じ「尊厳なんてどうでもいい、一緒にいることが大事」と考えるタイプだったのかもしれないと思わせられる。


一番印象的だった場面は、マドレーヌが自分の「足」である車を売る前に、ディアーヌに運転してもらって「恋人」を訪ねた、その帰り。泊まっていってとの誘いを断わり、車の後ろの窓から見る、立ち尽くす彼の小さな姿。「自分の人生、自分の体」を通すために、女はいつでも男と別れられなければならない!って、出来ればね。なかなか難しいと思う(笑)


上映前にフランス初の黒人芸人をオマール・シーが演じる「ショコラ」の予告が流れたものだけど、100年後のフランスが舞台のこの映画の中でも「黒人」の受ける「扱い」は色々だ。「メンテのいらないエレベーター」とマドレーヌを抱えて階上に運ぶ隣人につき、ピエールは「なんだあの黒人は」と小声で言ってのける。マドレーヌの世話をするのはアフリカ系の女性で、冒頭彼女を巨木のような腕で抱いて歌う場面では、私もそこに行きたくなった。