ふたつの部屋、ふたりの暮らし


私達が作中最初に目にする、愛し合うニナ(バルバラ・スコバ)とマドレーヌ(マルティーヌ・シュバリエ)の夜と朝は甘美だが、繰り返されるうちにその内実が見えてくる。帰宅してからのダンス、ディナーも一緒にできない誕生日(マドレーヌの家族が帰るのを見計らってゴミ出しを装うニナが赤い口紅を塗るのがいい)。マドレーヌの姿が消えるキッチン、同乗できない救急車の場面から、差別と偏見による壁は二人の行く手に強固に立ち塞がる。

向かい合う二つの部屋の間の距離は、「そういう関係」ではありませんと世間に見せるためのもの…くっついて新聞を読んでやっていたニナがマドレーヌの娘アンヌ(レア・ドリュッケール)の気配にさっと離れるあの距離である。マドレーヌが倒れたことで二人は四六時中その距離に阻まれることになる。子ども達に連れられて彼女が戻ってくるのをニナは鍵穴から覗き見るしかない。そもそも女にとって「外」は恐ろしいものだから鍵穴から覗くことには恐怖がつきまとうものだけど、ここでは「内」であるべきパートナーを「外」に取られた者の焦燥や不安が相まってホラーの様相も呈している。

オープニングの公園の一幕は「二人しかいない世界(それは私達のせいではない)で相手が消えてしまったら、訴える相手もおらずどうすればよいのか」という恐怖の夢と私は受け取ったんだけど、一人になって慄く少女はニナなのかと思っていたら、やがてマドレーヌの方だと分かる。彼女こそニナを奪われたのだと。ニナのやることなすことが常軌を逸したようにも見えるのは、ものを言ったり動いたりすることを封じられたマドレーヌの分まで暴れているのであり、これは二人の辛く激しい闘いの物語だったのである。

映画の終わり、「女性映画」の名作につきものの脱走を二人もしてのける。しかし、それがいつ行われるか、どこに向かうかで意味するところは少し違うもので、年のいった二人は最後にやっと逃げ出してクローゼット(マドレーヌの部屋)に閉じこもるのだった。その後の展開に私は希望も見たけれど、『私はヴァレンティナ』でも「遅い」奴が役に立たなかったように、マイノリティを追い込む壁を無くすことを先延ばしにしてはならない(そしてその労力はマジョリティが負うべき)。時は止まることがないのだから。およそ差別のあるところ、時が流れることが想定されていないように思う。