神様メール



何とかの何とか添え、何々ふう、というんじゃなく、色んなものを楽しげに盛り付けたお皿に顔を突っ込んでむさぼっているような、そんな感じがした。始めは楽しいけど、後半ちょこっとだれてしまった。


映像は「斬新」ではなく、どこかで見たものの組み合わせ、って貶しているのではなく、こんな時に私は、昔TVチャンピオンのファストフード王がマクドナルドとモスのハンバーガーについて語った言葉を思い出す、材料も鮮度もそう変わらないけど、ってそれが本当か否かは知らないけど、「新鮮」とは使い方如何なのだと。お話を彩るエピソードもどこかで見たようなものが多いけれど、それはこれが「映画の映画」(「神」(ブノワ・ポールヴールド)が映画が在れとしている映画)だから当たり前なのだ。


これは「娘が悪い父親から逃げる」話である(エンディングに流れる主題歌「Jours Peinards」のその通りの歌詞にも字幕がつく)主人公の少女エアが「これは世界がよくなる前の話」と語り始めるのが引っ掛かっていたら、かつて世界がよくなかったのは「神が男(悪い父親)だから」。物語の最後に世界がよくなるのは、母親(ヨランド・モロー!)が実権を握ったから。しかし一人が権力を持つ時点でそんなに変わりゃしないし、母親は、夫に「お前は何も考えないから何も分からないんだ」と言われていた時のまま、「目覚め」るわけでもなく、たまたまあれこれした結果「うまく」いってしまうんである。女は考えることはしないけど、無垢で優しく強いものだと言われてるようで釈然としない。


「神」が作る規則は「恋に落ちてもその『女』とはうまくいかない」なんて、まるで恋をするのは男だけ、とでも言うような男視点である。「旧約聖書」の中ならいざ知らず、舞台が「今」ならば、この「誤り」は神が男であるせいではなく、神が馬鹿であるせいであり、そこがこの映画の肝である。ともあれそのためか女達は極めて受け身で、自分に恋をした、大抵は年長の男に心を開く。世界を歩き回るアダムに対し、イブが「接客業」として誰かを待っているのは、「余命を知っ」てのどのエピソードにおいても、女が「ケア」する側であることと関係あるように思う。


物語のラスト、新しい「神」の手により、男である殺し屋フランソワ(フランソワ・ダミアン)が妊娠し、パートナーのオーレリーに「あなた、脚の脱毛をしたら?」と言われるのが面白い。要するにそういうことなのである。中盤主婦マルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)が、老いて肉がついたという思いからか、ベッドから裸で立ち上がる時、相手の男に「見ないで」と言うんだけど、世界がそのように変わった後にも同じことを言うだろうか?(あるいは彼女はゴリラにもそのようなことを言っただろうか?)などと考えた。男女問わず、言う人は言うし、言わない人は言わないようになるのかもしれない。


それにしても、ドヌーブが「きれいな髪だね」「瞳もきれいだ」と言われる場面では、当たり前だろ!と思ってしまった(笑・あえてのそれに意味がある、「ドヌーブ」なんて知らない若者だという意味があるのだとしてもね)始めは何となく腰かけている彼女が、気に入ったゴリラを迎えた居間でそっくり返って座る姿が素晴らしい。女優といえば、マルクの「相手」の登場時の横顔がロザンナ・アークエットに似ていたので、あそこで彼女が読んでいる本は、「失われた時を求めて」ではなく「南回帰線」かと思った(笑)


最後に話がそれるけど、ふと先日見た「君がくれたグッドライフ」も思い出した(「神様メール」はベルギー出身の監督によるブリュッセル映画、「君がくれた〜」はドイツから尊厳死の叶えられるベルギーに最後の旅をする話)。あの映画の、親友夫婦の「あの二人はこんなことで争ったりしない」「それは(夫が)もうすぐ死ぬからだろ」という喧嘩腰のやりとりに、人は死なないから嫌なことを嫌だと思うのだと考えたものだけど、こちらの映画でも(もっと「軽い」ふうに、だけども)同じようなことが描かれていたから。