あなたはまだ帰ってこない


映画は「全てを覚えているが書いている私の姿だけが思い出せない」というマルグリット・デュラスメラニー・ティエリー)のうさんくさい前書きに始まる。そういえば先週見た同じく物を書く女の話である「金子文子と朴烈」にもこれのおよそ真逆とも言える注意書きがきちんと挿入されていたものだ。文子の著書も注意書きも素晴らしいが、映画の登場人物としては、明るく・強く・美しくという感じの彼女よりも千々に乱れているデュラスの方が一億倍心が沿う。
冒頭レジスタンスらの場でデュラスが結婚指輪をいじってるのが印象的だった。私もしているが普段はそのことを忘れている。触るのは、嘘みたいなことを言うようだけど、誰かと結婚しているということについて驚きや違和感を含め考える時だ。

男は私の首や肩に背後から手をかけるが(掛けさせるために私から首を差し出しもするが)、女同士は、冒頭の流れるようなカメラワークの内の一時の友達とのすれ違いからして真正面から抱き合う。ここでの女とは、戦争映画において男がすることを何もできない人間のことだ。
「女は待つだけ、神にへばりつきながら」と私は言うが、ユダヤ人の障害を持つ娘を待ったカッツ夫人について「彼女は半年間神に抗った」、夫が死んだとふと確信した日には「私は抵抗せずに死んでいく」と考える。「待つだけの女じゃない」というつまらない文言があるが、この映画(=「苦悩」の映画化)は待つことしかできない中で何を考えどうしたかという話で、それこそが文学だと私は思う。

巨大な団子が二つ並んだような尻で登場するゲシュタポ役のブノワ・マジメルの太り具合にびっくりするが、それは道理。「お仲間」は恐怖から逃れるために、あるいはデュラスの夫ロベール・Lの肉をしゃぶり尽くすように、血のしたたるステーキや生クリームを食べ続けているから。デュラスの方は初めて二人で会った時から最後に至るまで彼の勧めるものを口にしない。彼女が食べるのはただ生きるためだ。
「カフェ・ド・フロールより気楽」な店での、キスの後にキスしたからじゃなく以前から知っていたことを告げる最後の密会のくだりの面白いこと。目の前の彼を観察して「恐怖が消えた」とは、デュラスの言いたいこととは異なるけれど、男を男だと実感して恐怖が消えることが確かにあると思い出した。