5月の花嫁学校


(以下「ネタバレ」しています)

それぞれのやり方で髪を整え朝の支度をする、鏡台の前の三人の女…に対しパジャマのままで机の前に座っている男。夕餉での事件に、坂口安吾じゃないけれど、命の危機に際し誰もいない外へ飛び出していく者などいるだろうかと思いながら見ていたら、引き出しの中身や妻のポーレット(ジュリエット・ビノシュ)に言われたことをし終えての(実際にはそんな態度は取っていないにも関わらず)「威圧してやった」などから、夫のロベール(フランソワ・ベルレアン)も抑圧されており逃げたかったのだと分かる。死によって窓の外へ出られたのだと。

この映画は「窓の外」…変化しつつある社会へ参加しようと皆が飛び出していく話である。女達はそれぞれの心持ちで内にこもっている。レジスタンスの過去を持つシスター・マリー=テレーズ(ノエミ・ルボフスキー)が外から帰ってきた生徒を共産主義者だとして撃とうとするのは変化を恐れる気持ちからだし、ポーレットは初めて自分の口座を持った翌日、家計簿について「お金は管理するだけに留めること」と教えつつふと矛盾を覚え窓の外を見る。愛するアンドレエドゥアール・ベール)と抱き合えば部屋の窓が開き風が吹き込む(彼女の目尻に滲む涙!)。カメラは最後、バスの前面の窓越しにポーレット、マリー=テレーズ、ジルベルト(ヨランド・モロー)の三人と少女達を見送る。

実のところ、風はずっと吹いていたのである。少女達は母親から、ラジオのニュースから、年長の女性による人生相談から、日々影響を受けている。抑えつけたところで学校にはそれらが持ち込まれ、教える側である大人達が少しずつ変わっていく。学校から外へ出る道のりが、始めは夫に運転を禁じられていたポーレットがハンドルを握っての、否応なしの三人での雪道だったのが、一人で車を飛ばす緑いっぱいの道となり、「5月」になれば皆でパリを目指してバスで行く、ダメなら自分の足で行く。映画の終わり、ポーレットは風を起こす者になる。

ポーレットとアンドレが山でいちゃつく場面が素晴らしく(「セラフィーヌの庭」(2008)から通底している魅力があった)、これを見ただけでも劇場に来たかいがあったと思っていたら、以降も彼女の恋愛絡みの描写は全て実に私好みだった。女に恋などする自由がなかった時代には恋をすること自体が抵抗だから恋愛要素が多いのには納得するけれど、ポーレット以外の恋模様に丁寧さや鮮烈さがないのは残念だった(レズビアンの恋の描写には、同様に少し引っ掛かった、「ブックスマート」のトイレでのシーンを思い出した)。

マルタン・プロヴォ監督の初めてのコメディらしいコメディを楽しく見たけれど、フィクションに対して私が抱えている相克そのものがこの映画にもあると思った。弱者の辛苦をそのまま描いて訴えるべきか、こうあれかしという様を描いて「普通」を牽引すべきか。この映画は後者を取っているけれど、おそらく一番やりたかったのであろうラストのミュージカルシーンは、革命の地が遠くに見えることからして中途であることを表しているにしても、少々呑気すぎるように私には思われた。