ある過去の行方



公開初日、新宿シネマカリテにて観賞。
面白かったけど、アスガー・ファルハディ監督の映画(劇場で見るのは三作目)って、なるほどうまくできてるなあ、と感心している間に終わってしまう。私としては、「映画」というだけで既に「暴力」をはらんでいるんだから、もっと好き勝手に突き付けてくれたらいいのにと思う。それも勝手な思いだし、「意思」の無い「映画」は無いから、その形式、度合いの問題なんだけども。


パリに暮らすマリー=アンヌ(ベレニス・ベジョ)の元を、4年前に故郷テヘランに戻った夫のアフマド(アリ・モッサファ)が離婚協議のために訪れる。マリー=アンヌは娘二人と恋人のサミール(タヒール・ラヒム)、その息子と同居していたが、長女リュシーは母親に反抗し家に居付いていないようだった。


冒頭、空港でマリー=アンヌとアフマドが久々に再会する一幕の不穏なこと。雨が降り出し曇りまくった借り物の車内で、駐車場からバックして出ようとするのに、右を見ていてと頼むも、ぎりぎりでストップ!と言われる。二人が「合わない」ことが伝わってくる。
しかしマリー=アンヌにはアフマドに対する愛情があるように見える。作中唯一の彼女のささやかな笑顔は、彼の傍で現れる。リュシーがアフマドに対して「ママがサミールを好きなのはあなたに似てるから」と言い、場面が替わると、マリー=アンヌはサミールの手に手を絡めている。彼女が目を閉じるのはアフマドと重ねているからか、サミールが振り切るのはそれに気付いているからか。ともあれ「パズルの材料」はきっちり揃っている。


マリ=アンヌとアフマドが上手くいかなかった理由の大部分は、映画を見る限り、アフマドが「異邦人」だから。空港からの車内でマリ=アンヌがサミールの妻の病気について話すと、アフマドが少し笑みを浮かべる。「何よそれ」「イランでは単なる笑いだ」「ここではそういう意味じゃないわ」…このやりとりに既に現れている。(日本人の)私も何となく笑ってしまうことがあり、おそらくしないでいるのは難しい。そういう感じなのかなと思う。
アフマドがリュシーを連れて行くカフェの店主はイラン人夫婦で、自分達の円満の秘訣を冗談めかして「国旗が同じこと」と言う。「お前にこの国は合わないのさ」「どちらか選ばなきゃ」。


「座る」という行為が象徴的だ。イラン人夫婦はリュシーを預かった晩、二人で並んで座ってテレビを見ている。腰掛けることが出来る、程度の椅子だけど、そこには生活がある。対してマリー=アンヌは「家の持主」でありながら殆ど座らない。夕食(イランのシチュー、どんな味なのか想像がつかない、食べてみたい)の食べ始めも朝食のパンも立ったまま。終盤、とうとう出て行ったリュシーを追い掛ける直前のみ、観念したように腰を下ろしている。
マリー=アンヌがサミールの自宅を訪ねた際、立ったままの彼女に、彼は冷たく「なぜ座らない」と言う。二人は共に察し、緊張している。実は「家」じゃなくても「座る」こと、落ち着くことは可能なのだ。終盤、彼が店の客用のちょっとした椅子に彼女を座らせる時、二人は作中最もリラックスしている。サミールは「過去じゃなく今の話をしよう」と言う。これがこの映画の流れ着く先。「別れ」は致し方ない、「穴埋め」はしない方がいい。それぞれの「結末」には明るいものを感じた。