キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー



公開二日目、新宿ミラノ1にて観賞。とても楽しかった。


(以下「ネタバレ」あり)


「舞台」となるシールドでは、長官ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)を始めキャプテン・アメリカ(以下キャップ/クリス・エヴァンス)らは「情報の分割」下で働いている。そうと知らなかったキャップに責められたニックは「全体を把握している者などいない」「俺は『共有するタイプ』だ」。
その後、二人は「インサイト計画」(全世界を監視下に置き、巻き添えが出ようとも「やられる前にやる」システム)の本拠地に足を向ける。大勢の職員達も「共有」感覚があればこそ働いてるのだろうか?後にキャップは「情報を共有しようとしない」との咎で悪者にされるが、それを皆に触れるのは、建前上は「共有」をよしとしながらも自らは「共有」しないことで目的を達成しようとしている、シールドの理事アレクサンダー・ピアース(ロバート・レッドフォード)だ。このあたりが面白く、データとの対峙の仕方という点でリメイク版「ロボコップ」のアップデートを思い出した。


私は肉弾戦が好きだから、とくにアクションシーンについては、これまで見てきたスーパーヒーロー映画の中で本作が一番お気に入り。冒頭のミッションでの、キャップと格闘家演じる海賊のボスとの一戦からして楽しいし、繊細な顔に重厚なコスチュームのウィンター・ソルジャー(セバスチャン・スタン)が登場してからは、獲物一直線の彼がどすどす進みながら任務を果たしていくのがたまらない。
重量級の面々が目を楽しませてくれる中、小柄なブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)の戦法は、騙して「蜘蛛女」をするとか(あの技、名前あるんだよね、きっと)弱点を狙ってその隙に逃げるとか、実用的(笑)という点でありがたい。本作のスカーレット・ヨハンソンは、百戦錬磨の役ながら、動作や姿に少女の頃を思い出させる雰囲気があった。
そしてアンソニー・マッキーの首から下が別人のようにモリモリに!(「ペイン&ゲイン」撮影時の体を更に鍛えたのかな?)アメリカ映画には「ビルの屋上にいるところに下からヘリが登場する」というジャンルがあるけど、その「ヘリ」に代わるのが彼だなんて思わなかった(笑)


見ながら「大統領の陰謀」や「合衆国最後の日」…からの勿論「コンドル」を思い出していた。最後のサムの「スパイはごめんだ」というセリフがいい(笑)
レッドフォードが暴力を振るう場面の数々(!)の新鮮なこと。彼がこういう「アメリカ」映画に出ているとなると、この映画の出来をどう思ってるんだろう?というメタ的な関心の方が大きくなってしまうけど。
でも一番ぐっときたのは、キャップとペギーの「ある日どこかで」的場面。「シールドに入ったのは、あなたが作ったから」(略)「アメリカは(シールドは、だっけ?)変わった」「大げさね」。「寝ていた」時間以外はずっと、これからもずっと、アメリカの軍人として生きていかなければならないキャップと、彼無しであまりに長い時間生きてきた彼女とでは、感じるものが違う。そしてあらためて彼の顔を見て「生きてたのね」…ここで少し泣いてしまった。この場面と、始めの方の、「レコード」の鳴り響く自宅にキャップが窓から忍び込む場面は、政治アクションものの中に紛れた、舌を痺れさせる甘味のようで嬉しかった。


映画の最後にブラック・ウィドウが記者達に対して言う「逮捕できるならすればいい、私達は世界に必要なんだから」というセリフは、「行き過ぎた正義」を行使しないことを選ぶなら…きっと選ぶに違いない、そうしたら、それこそ「一本切っても二本生えてくる」悪を叩き続ける「スーパーヒーロー」が必要でしょう、という意味なんだろうか?更に言うなら、それならば、「スーパーヒーロー」のいない「現実」においては、「行き過ぎた正義」を全くもって行使しないなんてありえない、という意味なんだろうか?
いずれにせよ、この先「何か」が出てくるまでしばらくは、他の「スーパーヒーロー」映画がどんな「ジャンル」で何を描こうと、その存在理由をこの映画に求めることが出来そうだと思った。