最近見たもの


ブルーム・オブ・イエスタディ



「求めるものがある人間は自我を越えてゆく」。万雷の拍手の音は激しい雨の音に似ている。登場人物の名前がザジ、トト、バルタザール。「ホロコースト関係者といえどもまずは生活がある」ということを描いているのに、結局のところ「全ての根っこに『それ』がある」ことばかりが強調されている。矛盾はしないけど、何かこう、「尻尾」が長すぎてバランスの悪い映画という感じを受けた。


黒人、年寄、障害者だからこそ言える、当人だけが言えるギャグというもの(を押し出した映画)があるけれど、ここではいわば「ホロコーストギャグ」とでもいうものが窺える。例えば「妻は獣医なんだ」「そうなんですか」「去勢したり安楽死させたりするんだ」とかね(ただしこのやりとりについては、終盤に振り返ると違った意味が感じられる)。コメディって程のコメディじゃないのでそう目立ちはしないけれども。


ホロコースト研究所のスタッフ達が、収容所の大きな写真の前で、明るい陽射しの中、インターンのザジ(アデル・エネル)のお土産を「やっぱりフランスのパンは美味しいなあ」と堪能する場面なんて悪くなかった。食べ物と言えば、ザジとトト(ラース・アイディンガー)が一緒に行くのが「アメリカ(ふう)の飲み屋」「中華料理屋」という「よそ」の国のレストランばかりというのが面白い。後者で二人は険悪な雰囲気になり、彼女はいったん注文したドイツのビールにけちをつけて下げさせるのだった。


ブラッド・スローン



映画は主人公ジェイコブ(ニコライ・コスター=ワルドウ)の仮出所に始まり、宣伝から想像していたのとは違って彼の「今」が、並行して「これまで」が描かれる。多くの要素を時間的に均等に扱いどれにもそれなりに重みがある、というタイプの映画だった。オープニング、「今」の彼が手紙を書く目つきが周囲の状況とあまりに似つかわしくなく思慮深く見え、そこで惹き込まれた。


中盤、ジェイコブがモーテルで起き抜けに運動する姿に、「ムーンライト」の冒頭を思い出した。彼は「外」ではタトゥーの入った肌を見せないよう首まで詰まったシャツを着ているが、鍛える理由、根っこには通じるものがある。「車の窓から手を出して風を感じる」同じ場面の意味するところは、少年のそれが風の通る世界を初めて知る仕草なら、大人の男のこちらは悪の浸食をせめて自分の代で食い止めんと決意した上での、気障な言い方をすれば風の通る世界への別れの仕草である。


ジェイコブが「自分から暴力を使う」と決意するのは、同時に入所した怯えた様子の若者が集団レイプされたのを見たことが切っ掛けである。そこから出られなかったらそうするしかない(とはいえそれは彼の選んだ道なんであるが)。「ここにはwarriorかvictimしか存在しない」という語りに、戦士?と思うが、確かに戦士とはそういうものかもしれない。彼がアフガン帰りのハウイ(エモリー・コーエン)を「下ろす」のには、戦士から下りる幾つかの方法、なんてことをふと思った。


▼ドリーム


よく出来た映画だけど、私の心にはあまり響かなかった。作中三人が(これまでは自分達に対して閉じられていた)「部屋」に入る場面が何度もあるが、最後のキャサリンタラジ・P・ヘンソン)の場合はかなりの高揚感が伴っているだろうからともかく、いやいや、なんかさ、そんなもんじゃなくない?と思ってしまって。エンドクレジットで実際の三人を見ると、これだけパワーのある人達だから出来たんだろうと納得できるんだけども。


三人の見事に化粧された顔に、私はああ、あんなに忙しくても女は更に余計な時間を掛けなきゃならないことがあるんだなあ、「キャサリンのトイレ」と、時に楽しさもある等の違いはあれど重なる部分もあるよなあと思いそうになるけれど、この映画としては、そういう捉え方は「間違い」だよね。マハーシャラ・アリ演じるジムが「夢の男」であるように、彼女達は「ああいう顔」なんだから。


ピンヒールで梯子を上り下りするのは疲れるし危険なはずだけど、実際はどうだったにせよ、この映画はそういうリアルさより「痛快」さを選択している、そこのところが私の好みと違う。会議室の黒板のてっぺんがキャサリンの背でぎりぎり届く高さに設定されているのにはかなりの意図を感じた。細いヒールのパンプスを履いた女性達の中で唯一、計算室の秘書の女性だけがペタ靴だったのは、背の高い彼女が男性を「見下ろす」形にならないためにそうしているのだろうと考えた。


▼エイリアン コヴェナント


私はマイケル・ファスベンダーがあまり得意じゃないんだけど、今年公開の「光をくれた人」とこの「コヴェナント」の彼はよかった。どちらも肉体の魅力が存分に出ている。いいと思うのがメロドラマの主人公とアンドロイドってのが面白い(笑)


映画はファスベンダー演じる一体のアンドロイドの目覚めに始まる。私にとってこの映画の一番の謎は、何が見える?と聞かれた彼が「白い壁の部屋、椅子、ピアノ、絵画」にのみ言及し窓の外の景色に触れないことである。なぜだろう?違う意味で不思議なのが、その後にピアノで何を弾こうか尋ねられたウェイランド(ガイ・ピアース)がワーグナーを挙げるところと、それを受けてのアンドロイドの選曲(ピアノで弾くような曲じゃない)。その後に彼は自分を「デヴィッド」と名付ける。なるほどこの曲が「テーマ」なのだと思う。


「I'm your father」の一幕の後にタイトルが出て、場面が替わり、「servant」のウォルター(ファスベンダー二役)の第一声は「了解、マザー」である。「エイリアン」で一行が進路を変更するのはマザーの指示によるものだったが、ここでは乗組員の総意による。いや、意見としては少数派のダニエルズ(キャサリン・ウォーターストン)とウォルター以外の総意と言うべきか。彼女は進路変更にもデヴィッドの話にも「納得できない」と意を唱えるので、考えるとこの物語における彼女の存在意義は、少数派が反対したところで人類はダメなのだ、ということの表れなのかもしれない。終盤にとある惨状を目にした際の一筋の涙は、それに対するものなのかもしれない。