カフェ・ド・フロール



ヴィクトリア女王 世紀の愛」「ダラス・バイヤーズクラブ」のジャン=マルク・ヴァレ監督が二作の間に手掛けた作品。マシュー・ハーバートの「カフェ・ド・フロール」が、作中の「1969年のパリ」と「現代のモントリオール」において異なる演奏で使われる。
冒頭、なんだこの「欲望」meets「クラウドアトラス」みたいな映画は…と思っていたら、ヴァネッサ・パラディ演じるジャクリーヌが息子のローランとベッドで目覚める画にある予感を抱き、三つの線が「出会い」で束になる箇所で確信となり、終盤にはキャロル(エレーヌ・フローラン)がはっきりと「そのこと」を口にする。


「なるほど」度は高いし映像も面白いけど、そう好きにはなれず。私にとって、物語の構造が単純なほど足場がしっかりして映画をより「自由」に楽しめるからというのと(それは2D映画の方が3D映画より「自由」だというのに近い)、「『運命』が存在する」とされるだけじゃなく、それが変えられないということがラストカットによりダメ押しされるのが好みじゃないから。「運命」とはあくまでも「状態」で、その中の人間の在り方ならば変えられる、それこそが大切ということだろうか?
「女とはこういうもの」などといった視点が一切感じられず、あくまでも「個」を描いているところは見ていてとても気持ちがいいけど、「男」「女」の枠を固定するのは好きじゃない。どこかが「逆」でも「同じ」でもいいのに。


この映画は「カフェ・ド・フロール」が手を替え品を替え流れる前半の方が面白い(後半ぱたっと止んでしまう)。話の「意味」がオモテに出てしまうと、「結末」はどうなるのかという方にばかり思考がいってしまうから。
入り混じって進む三つのパートの内では、「1969年のパリ」を舞台にしたジャクリーヌの部分が一番面白い。物語の中に物語があれば(あるように「見え」れば)下位であるほど自由度が高いというのもあるし、ヴァネッサと息子役、二人の魅力もあるし、他のパートにやたら出てくる「プール」に、映画人ってプール好きだよなあ!とうんざりさせられるってのもある(笑)


はっとさせられる映像が幾つかあった。ジャクリーヌが腰掛けるメトロのポールにかかる手、手、手、片方の目の下だけにアイラインを引いた顔を下から捉えていくカメラ(あれは下からでなければ)、ふくれっつらの後に車のドアにぶら下がるのに驚いていたらふざけていると分かる一連のカット。
もうちょっと映像の意味を「広げて」言うなら…女は男に、自分(女)の手にクリームを塗るよう教える。男に好きな女が出来た時、ベッドで「彼女が好きなの」と聞くと、男はクリームを塗りながら、すなわち女が男に教えたことをしながら、「好きだ」「彼女も彼女の母親も綺麗だ」「あなたも好きだ」と言う。あの二人によるこの場面の、なんてぞくぞくすること。


キャロルは車を運転するが、元夫のアントワーヌ(ケヴィン・パラン)は「よく飛行機に乗るから、運命を自分では操れない」。「運命」を多少なりとも掌握する力が、悩まされる者にはあり、悩ます者には無いという構図が面白い。キャロルは自分がハンドルを握っていることの「意味」を分かっていない。
アントワーヌの「飛行機」に相当するのが、ローランが「子どもであること」。自由を持たない彼の反抗は、「くっついて離れない」などのストレートな行動として現れる。対して母親であるジャクリーヌは、比喩じゃなく彼を「縛り付ける」。更に面白いのはローランを「男」にしたのが母親のジャクリーヌだということ。二人が同じベッドで寝起きする様子は「男と女」にしか見えない。小学校に上がるか上がらないか年齢の息子が、母親に「可愛い熊ちゃん」などと呼びかける。やがて母が口にしていた通り「女が抗えない男」になる。


オープニングは「寝息と鼓動」。タイトルが出て一人の男の後ろ姿がぼやけてゆき、ダウン症の人々に焦点が移ってゆく、この次第に「ずれていく」感じや、悲鳴などの音で場面を「繋ぐ」のが、アントワーヌの職業である「DJ」を感じさせる。作中の彼自身は「曲をすっぱり切るとパワーが出る」とか何とか言うのが面白い。
登場人物がipod classicを操作する場面が多々あるんだけど、自分が毎日見てるからというわけじゃなく、あのディスプレイをスクリーンで見ても何の魅力も無いね、なぜあんなにでかでか映すのか(笑)