ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋


面白かったけれど、私としては国務長官の女性と失業中のジャーナリストの男性という「男女逆転」要素にはあまり乗れず(ローラン・ティラールのロマコメ(リメイク)「おとなの恋の測り方(2016)」に感じたのと似た理由による)、シャーロット(シャーリーズ・セロン)とフレッド(セス・ローゲン)が、資源の廃棄の撤廃よりも二部制プロムの実施が支持されるような世の中において「だって正しいから」と善いことをやり抜く同志であるところに現代性を感じた。「(政治家は嘘をついてばかりだから、あるいは嘘をつかなければならないから)政治家としての君じゃなく本当にやりたいことをやる君を応援する」。

セロン演じるシャーロットの愛らしさよ。大統領(ボブ・オデンカーク)の言質を取ったりBoyz II Menを目にしたりといった際の喜びを隠せない足取り、フレッドのコラムを読む時にタッチパッドをなぞる優しい指先、「エレガンス」度を落とさないため串ものを食べることさえしないのに階段を下りてくる彼を見て吹き出してからの笑い声(ここ、従来ならいつもと違う一張羅の相手に見惚れるシーンだよね・笑)、一番キュートなのはこの感想に画像を添えた本国版ポスターの一つに使われているこのくだり。これを宣伝に採用しない日本はダメだ。

シャーロットのチームの会議にて、「テレビから映画に進出するのは難しい」という会話に絡めてワンシーンのみ登場のリサ・クドローが「支持率は92パーセントだけど、もし男だったら192でしょう、男ってだけで」。後のフレッドとシャーロットの側近マギー(ジューン・ダイアン・ラファエル)の「テレビから映画スターになったのは二人だけ、クルーニーとハレルソン」「ジェニファー・アニストンがいる」「あれは主演ってだけでスターじゃない」とのやりとりは、男は女をなかなかスターだと認めないと言っているのだろうか。

フレッドの気の利いた一言からのある曲が途切れず流れる中でのキスから移動を挟んでのセックス(挿入行為)が一瞬で終わるのは、あの飛行時にも何かしらが続いていたから。面白いのは、この話では男の(自分に向ける)性欲を女が受け入れるのが鍵になっているところ。表沙汰になりそうになると、彼女は「世間が肴にするのは自慰で顔射した男じゃなくネタにされた女」だからと躊躇する。でも皆は二人を祝福してくれる。ここに本作の一番の希望(皆まだ愛と理性を持っているということ)が描かれている。性欲の発露がああいう形で肯定されるのは男の方なんだ、結局、というのはあるけれども。

1991年に16歳と13歳の二人。シャーロットによるポーリー・ショアの物真似、私も「原始のマン」が大好きだった。四半世紀前に「だって正しいから」と目指していたことを今でも私は目指すことができているだろうか、そんなことを考えながら見た。その頃より立ち退き映画と肖像画映画を集めてきたけれど、前者の持つ意味が崩壊してきて止め時かなと思っていたのが、本作を見て、後者、つまり自宅(じゃないけど、正確には)に自身の肖像画を飾っている人が出てくる映画もこれで打ち止めでいいかなと考えた。