水を抱く女



「形態は機能に従うと言いますが、(2020年にオープンした)フンボルト・フォーラムの姿は18世紀の王宮そのままです、まるで進歩は不可能だとでも言うように。それも一つの意見でしょう」

この映画を端的に表しているのがウンディーネ(パウラ・ベーア)によるこのセリフ(住宅開発省のガイドとしての練習)。機能、すなわち私、「ウンディーネ」が進化しているのに形態、つまり人の抱く「ウンディーネ」の概念、物語は変わっていないと言うのである。クリスティアン・ペッツォルトは敢えてこの古典を手に取り、そのように定められている女がいたならば当の本人は自らの意思をどこにどう発揮して生きるかということを描いたのだろう。

ウンディーネがこのセリフを口にする(正確にはその直前の)場面には興奮させられた。クリストフ(フランツ・ロゴフスキ)の「ぼくに解説して」に、「人前で話をする仕事あるある」だな!(少なくとも私にはある)と思いながら見ていたら、始めはちょっとしたプレイだったのが、次第に何かが乗り移ったかのように話し出す…いやあれが彼女の本質か。いつもなら模型を指して言う「今ならどの場所だか分かりますか」で場面は変わり、二人は実際のベルリンの朝を生きる恋人同士となる。

オープニング、「ぼくは話がしたいと言ったんだ、いつもなら会いたいと言うだろう?」と言う男に対し、ウンディーネは「そんなはずはない、留守電には会いたいと入っていた」と携帯電話を取り出す。この異様に映る行動から、第一に彼女が何かと闘っていること、第二に昔のままの形態のウンディーネが今いたらこんなふうなんだぞという、滑稽さを装ったちょっとした告発のようなものを感じる。

「ステイン・アライブ」でクリストフに蘇生させられたウンディーネは快感だったのだろう、「もう一度やって」とねだる。その後の沼のほとりのあの振り返りで(本国、日本共にポスターに採用されている場面で)、彼女は自分の生を強く感じ真に彼を好きだと知る。これは従来の「ウンディーネ」になかった要素である。出会って告白された男に愛を捧げると決められていたのだから。そんな彼女が「今までで一番幸せ」と語りかけるのは彼の留守番電話、窓の外に広がるベルリンの街である。

例えばシャーロット・ランプリングのような強烈な役者が演じても、いや、だからこそ、物語の終わりにそれは彼女だけじゃないと思わせる映画というのがある(これは「さざなみ」のこと)。この得難く素晴らしい感覚がこの映画にもあった。ウンディーネが専門外の王宮について話す契機となる、連絡も取れなくなったグロリアとは「誰」だったのか?都市にはこうして消える女性、定められた概念を生きざるを得ない女性が幾らもいるのではないか?誰も同じに見せる制服を着た女性ばかりがガイドをしているということが、私には薄気味悪く映った。

見た後に際限なく語れる映画というのがあるものだが、この映画の場合はどれだけでも語れるということが結局何も語れないということに繋がるように私には感じられた。「女性映画」を作るのが目的だったなら、解釈の揺れを許し過ぎるのは悪手だろう。自分の都合がいいように物事を見てしまうという私達の癖に一石投じなければ意味がないのだから(あるいは、この程度の意思の発揮でも、ある人達にとっては「一石」となるのだろうか?)。