Netflixのドキュメンタリー『ろう者たちのキャンパスライフ』での女同士のカップルの「私達はハグと会話を同時にできない」が印象的だったこともあり、この映画で主人公・大(吉沢亮)に暴言を吐かれた母・明子(忍足亜希子)が父・陽介(今井彰人)の仕事場を訪ねて一緒に帰る時、ろう者の二人が片方は歩き片方は自転車でどうやって話しながら帰るのかと見ていたら、互いを見つつ片方は片手でハンドルを押しながら普通に会話する。できないこととできることがある、考えたらそりゃそうだ。日本手話にも方言があり、物真似ができ、ろう者も声を上げて泣く、終盤の回想シーンで母が「人がたくさんいるところで手話を使ってくれてありがとう」と言っていたけれど、そうである者は人前では「目立たない」ようにしているから、そうでない者には分からないことだらけなのだと認識しなきゃならない。
(更に、見終わって原作を読みたいと検索した先の著者の別作品発売時のインタビュー(https://toyokeizai.net/articles/-/676093?display=b)に「母が優しかったというのは“社会の歪み”だと思っているんです」とあり、映画を見ながらお母さん、いつも笑顔で健気すぎだろうと思っていたのが納得できた。それを説明する直接的な描写はないけれど、「私が分からないからって…」と怒る場面にろう者がマジョリティのコミュニケーションから締め出されていることが分かる)
大の誕生に始まるこの映画は、母と大の「普通」の日常、その中での苦労と喜びの積み重ねを描いていく。小学生になった彼がスーパーマリオのテーマ曲を歌いながら下校する姿に、子が母の知らない、知ることのない世界へ足を踏み入れたと分かる。作中にはカメラの型から「三浦友和」など時代を推測できる要素が散りばめられているが(特定は平成四年に小学四年生である(「ごんぎつね」を勉強している)ことや履歴書で可能)、それらは流行というものが世の皆に開かれたものではないとも教えてくれる。「大の声が聞けるから」と20万円もする補聴器を買い「何か言って」と飛んで迎える母への一声が「だっちゅーの」という場面は、原作通りなんだろうけど、ああいう環境の男子の心境を始め色んなことを表しており秀逸だった。
大は大人になり東京に出ることで世界を広げていく。家族以外のろう者と触れ合いろう者も色々な…端的に言って下世話な話をすること、自分の助けが時にじゃまであること、そして自分のような者に「コーダ」という名前があることを知り心がほどけていく。「ふたつの世界」とはエンドクレジットにも出る原作タイトルからして「聞こえる世界」と「聞こえない世界」のことなんだろうけど、加えてここには子どもから大人、地方と東京といった、シームレスかつ対照的なふたつの世界が描かれているとも言える。そして先にも書いた回想シーンで分かるのは、家族しか、地方しかほぼ知らなかった頃の暮らしにもそうでない世界の片鱗があり、それはその時には気付けないということだ。母の「イカ墨のパスタを食べたら明日は…」に大が苦笑するテーブルには、振り返ると幸せがあったのだと思う。