母と娘 完全な夜はない


ジョージア映画祭の「母と娘 ヌツァとラナ」特集にて観賞、2023年制作、ラナ・ゴゴベリゼ監督95歳での最新作。先日発売された自伝『思い出されることを思い出されるままに』を読んだばかりなので比べながら見てしまい、馬鹿みたいな感想だけど、文学と映画の面白さ、心の掴まれようはこんなにも種類が違うものかと思ってしまった(言うまでもないけれど、どちらも面白いからそう思えるわけである)。

映画は本の最初のページに置かれた母ヌツァと娘ラナの写真に始まる。添えられる「これが母と会った時なのか離れた時なのか分からない、出会いと別れの区別がつけ難いように…」とのラナのナレーションに、常に詩である彼女の言葉を日本語にして届けてくれる翻訳者の方に感謝の気持ちを覚える。そこから映像を編集中のディスプレイにヌツァの、本の二ページ目に置かれた写真が映り拡大されていくのに至るオープニングの私好みのセンスは『金の糸』(2019)の冒頭と同じ類のものだ。
次いでこの写真が映る時の、これには撮影した父の影が映っているとのナレーションは、映画では省略されている「母はほとんど自らの意思で監獄に入った」(本より)経緯を思えば何ともドラマチックな物言いだ。最後にこの写真が映る時の、今なら返答できる、子どもを泣かせてでも映画を作る意義はある、映画は子どもの涙を乾かすと話すラナの顔がしっかりこちらを向いているのも、『金の糸』にも見られる彼女の世界への態度の表れだ。

『思い出されることを思い出されるままに』の序盤で最も印象的だった、ユゴーの詩を暗唱しないよう申し渡すはめになったカト先生(「お父さんが逮捕された子に詩の暗唱はさせられないの」)とフランス語を教えてくれたジュヌヴィエーヴ、二人の女性についてのエピソードは映画では私が感動した要素が省かれていた。
「その後学校に行かなくなった」とだけあった前者は『急に先生がひどくかわいそうに思えたがどうなぐさめていいか分からず、私はなぜか笑った(その日、重苦しい状況から抜け出す最良の方法は笑いだと初めて学んだように思う)』『この日(略)真の子供時代が終わった』、「母は私よりも彼女の方が好きなのでは」と話していた後者については『(母を亡くした彼女に暴言を吐き父に怒鳴られた後)まずは世界中が私に対して非があり(略)と考えた(略)しかし(略)にわかに私は後悔の念でいっぱいになり』『その時の私はまだ知らなかった(略)同情こそが人の最も崇高な感情であることを』と本には書かれており、いずれもなるほどと読んだ。

私としては、ラナにとってというかこの映画におけるヌツァの歴史が「フェミニストだった」母方の祖父バトロメから始まるのを面白く思った。本にもあるようにそのおかげで母もその姉妹も高等教育を受ける機会を得られたと。
映画の終わりにラナが行きつくのは、ヌツァが30歳の時に果たしてどんな映画を撮っていたかということである(この要素は2002年に本国で刊行された本にはない)。『ブバ』(1930)『ウジュムリ』(1934)の発見と復元、世界各地での上映、批評家による作品の評価につきかなりの時間を割いてラナが語る(とりわけ映画を賞賛する批評家の言葉の紹介に熱が込められている。釜山での上映時に街中に飾られていたというヌツァの全身写真も見もの)。ここでヌツァの消された名誉が取り戻され、映画の何たるかが確認され、娘はソヴィエト最初の女性監督の一人だった母を我がものとして捉える。二作を2022年のジョージア映画祭(岩波ホール)で見た私も、自分が触れたあの「永遠」(批評より)はそういうものだったのかと改めて認識した。