ひとつ空の下 3つのエピソード


ジョージア映画祭のラナ・ゴゴベリゼ監督特集にて観賞、1961年作品。女性が主人公のオムニバス映画というので今年のイスラーム映画祭で見た『私が女になった日』(2000年イラン、マルズィエ・メシュキニ監督作品/感想)を思い出した。あちらが三世代の女の同じ日を描いているならこちらはジョージア現代史上の節目となった20年毎に時代が進む。しかしラストシーンは「こんなきれいな空、見たことない」という確かに皆が見た同じ空。

1921年が舞台の1話『貴族の女マイア』(そう、その与えられた二つの属性こそがマイアなのだ)では主人公マイアはボリシェヴィキの使用人の男(と家畜)に引かせた車に乗って赤軍から逃走中だが、1961年が舞台の3話『フレスコ画』の主人公ルスダンはトビリシのスポーツ宮殿の設計を担う建築家で、自分の車の後部座席に好意を抱いた男を乗せる。人生を生き抜いてきた女と人生がこれからの女の対比のようにいずれも終わるのは今の目で見ると古典的に感じられるが、誰もが私達であり、あれは新しい私達への引継ぎなのだと思う。1話のラストで男同士の殺し合いに巻き込まれ続けた人生を語ったマイアが入水した海を見る若いダビノの顔が心に残るが、2話と3話の主人公はその後も生き続ける、少しずつ獲得し広がっていく選択肢の中で。

最も心奪われたのは独ソ戦が始まった1941年の物語である3話『鳩』。舞台は父が処刑され母が流刑に処され残されたラナ監督が少女時代を過ごしたというトリビシの街。主人公ナナが飛行機を見張る当番だからと駆け上がる階段をあおったカットにまず心惹かれ、その後はずっと若者達が不安定な屋根の上。自分達が通った、今は病院として使われている校舎の傷病兵との身振りでのやりとりや、上から見下ろす軍の行進。青年レヴァンが寝転んだ姿勢から立ち上がったのを見ての「背が高いのね!」に溢れる、背の高さがどうとかじゃない恋心のきらめき。終盤彼女に抱きつこうとする別の男がトタンを響かせる足音の恐ろしさ(当初そうと知らない傷病兵達が男をけしかけるのが恐怖を倍増させる)。ちなみに3話では建築現場で絵を描く足場の上の若者を地位のある主人公が下から見上げる、惹かれているのは絵か彼か、というカットが印象的で、どこにもいわゆる女心というものが焼き付けられているのだった。