ぼくのお日さま


冒頭『月の光』で踊る少女さくらを捉える少年タクヤ目線の長々とした映像に、男に目をつけられるとろくなことがないと分かっている身としては、これがどういう類の感情でどう表出されるのか早くはっきりさせてほしいと思いながら見ていると、どうも彼は彼女を通じ野球や(「誰もやりたくない」!ゴールキーパーを押し付けられている)アイスホッケーではない氷上のダンスに魅せられたようで、一人練習を始める。少年少女の心の内は最後までほとんど明かされず、吐露されるのは大人であるコーチの荒川(池松壮亮)のその一部だけなのだった。

荒川が古い雑誌の表紙にさくらとタクヤアイスダンスのペアにすることを思いつく、その理由が私にはよく分からなかった。リンクでの指導中の「お客さんの方を見て!」なんて声かけからは世の中への向き合い方を教えているように思われた(一方ボルボで向かう誰も来ない小さな湖ではゾンビーズでもってただただ三人で遊ぶんだから)。同性のパートナーである五十嵐(若葉竜也)への「ちゃんと恋してる感じが…」とのセリフでまたよく分からなくなった。「どこへでも行けるわけではない」人間が、ダンスの男女ペアのように「どこへでも行ける」関係を築き支援し楽しくなるというフィクションはちょっと受け入れ難い。

終盤さくらが一人『月の光』で踊る映像は誰の目線でもない(ということが序盤との対比で強調されている)。荒川がゲイだと知り暴言をぶつけ母親に言いつけタクヤとのペアを一方的に解消する、その裏にいくら複雑な心情があったとて残酷すぎる。世界には残酷さが在る、あるいは残酷さがあっても「美しい」という話なのかなと思ったけれど、『僕はイエス様が嫌い』のそれとこれとは違う。作り手がその残酷さを彼女に負わせたということだけが心に残った。観客が生きる社会において題材につきどういう態度で臨むのか示してほしかった。そんなもの要らないというのは殺される危険のない者の言うことだろう。