花咲くころ



2013年、ジョージア・ドイツ・フランス合作映画。内容を知らずに見たんだけど、こんなにも、最初から最後まで暴力に満ちた映画だったとは。「ジョージア人は古来より皆戦士なのです。皆武器を持つべきなのです。ただし悪事には使わないこと」と冒頭アナウンスが流れるが、それがいかに大変なことかという話である。銃以外のあらゆる暴力があふれた世界を、とある気持ちのこめられた銃がめぐりめぐる。


バスを降りた少女エカは配給のパンを調達しての帰り、「いつも」の二人組に絡まれる(その背景はおいおい分かってくる)。帰宅して彼女が手にするナイフが、私には作中最初の武器に思われた。しかし彼女がそれでもってするのはパンの汚れを落とすことである。更に少し切り取ってゴミ箱に捨てる。それは彼女の心の傷ついた部分だ。その晩、彼女がパンの一部をどうしたか、家族の誰かが尋ねたろうか?私は尋ねなかったと思う。


エカがナイフを取り出した引き出し、少し切り取ったパンを仕舞ったパン入れは、親友ナティアが弟を抱き締め、銃をまず隠した風呂場にも思われた。暴力への反動を潜ませておく場所である。エカが父親の引き出しの、更に蓋のある箱を開けて中を何度も確かめるのは、父がそこに何を隠していたか、あるいは隠していなかったかを見たいがためだったのではないか。映画は彼女がそれときちんと向き合うところで終わる。


人々は常にお腹を空かせている。実際に食糧事情が悪いのだが、この映画ではそれは与えられるべき物が与えられていないことを表している。その代用が、年長の少女達が回すタバコや、エカが結婚式で踊る前に、エカとナティアが誕生日の祝いの席で、一気に飲み干す酒である。「男手」のない家庭で、外で稼いでいるらしきエカの母親が娘達にタバコを禁じるのは、そんなものでごまかされないでくれという気持ちの表れにも思われた。その「逆」が、式の翌朝、彼女が出勤前に用意する簡単な朝食である。エカは砂糖を二杯、お茶に入れる。


教師に出て行けと言われたナティアに続き、クラスの全員が逃亡した遊園地のシーンがやけに印象的だ。皆が心から楽しそうにしている。このような世界では、もしかしたら、同じ立場の者ばかりが集う時のみ心が解放されるんじゃないかとも考えた。「スリー・ビルボード」で言う「無心」である。それはほんのたまにしか在り得ない。たまに、だからゆえの安定である。祖母が「いつもの不味い豆料理」じゃないご馳走を作れるのは誕生日だから。そうそう質屋に行けるもんじゃない。


それにしても、誘拐婚の祝いの席で、「女性がいなければ生きている意味がない、女性の美しさに乾杯」と日本にも満ちているあの暴力が振るわれる時、笑うしかなく席を立つ花嫁と彼女のために痣を作った少女を除いて爆破したくなる衝動をどうしてくれよう。この映画はそんな衝動は「ああ」するのだと言うけれど。