パパとマチルダ/少女ジュリエット

特集上映「サム・フリークス Vol.8」にて、父と娘の映画二作を観賞。振り返るとどちらも少女が自分の強い意思を示して終わるのだった。


▼「パパとマチルダ」(1994/アメリカ/ギリーズ・マッキノン監督)はジョージ・エリオットの「サイラス・マーナー」を下敷きにスティーヴ・マーティンが脚本を書き主演した一作。

「花嫁のパパ」(1991/チャールズ・シャイア監督)の結婚式の晩、スティーヴ・マーティン演じる父親の脳裏を娘と過ごした日々が過るが、「パパとマチルダ」はそれを描いた映画だと言うこともできる。でも、もしも父と娘の「血が繋がって」いなかったら?(実のところ「花嫁のパパ」だって血が繋がっているか否か分からない、それは問題じゃないから)。法廷においてマイケル(スティーヴ・マーティン)は「寂しさを癒すために子どもを引き取ったのでは」と問い詰められるが、例えば「インスタント・ファミリー」(2018/ショーン・アンダース監督)の二人が養子縁組制度に興味を持つ切っ掛けだって何でもないことだったものだ。それがどうした、大事なことは他にある。

序盤のマイケルは「なぜ金貨にこだわるのか」と問われて「裏切らないから」と答えるが、子どもは金貨と違い「裏切る」から一緒に生活するのが大変だ。ベビーフードを揃えても食べないし、歌い踊ると笑うし、お仕置きをお楽しみと受け取るし、鋏でリボンを切って逃げる。それらは主に二人だけの密室で繰り広げられるが、この物語は「変人」であったマイケルが子どもとの関係を築くことによって社会との関係をも築いていく過程を描いている。尤も証言台に立ったエイプリル(キャサリン・オハラ)が彼こそ親にふさわしいと信じる根拠を言えば言うほどその場の空気がおかしくなるという描写はそうしたいわば本筋とはずれており面白いけれど。

雪の晩に幼子が目指す明るい光にふと、マイケルが金貨をまだ持っていたなら戸口を開け放して外へ出ただろうかと考えた。小説には「彼は金貨を持っている時は箱に鍵を掛けていたが、盗まれて箱が空になってからは何か入ってきやしないかと開いて待っていた」というような描写があったものだ。あれは孤独な二人が引き寄せ合った出会いの場面なのである。本作の彼が「ぼくは金貨を盗ませた…いや盗まれたんだ」と言い間違えるのは、裏切るかもしれない何かと金貨を交換したいという気持ちが自身にあったと認識していたことの表れだろう。お金は必要だけど、必要なのはお金じゃない。


▼「少女ジュリエット」(2019/カナダ/アンヌ・エモン監督)はプラスサイズの少女ジュリエットの夏休みを描いた一作。

マーキュリー・レヴの「Goddess on a Hiway」で高まった後のジュリエット(アレクサーヌ・ジェイミソン)の妄想シーン(憧れの男子学生が「お色気」で迫ってくる)で場内に笑いが起きなかったのが印象的。上から目線で言うようだけど、10年前なら「男女逆ならよくあるのに男がやるとなぜか笑いが起きる」現象があったんじゃないかな。他にも「不法移民の権利のために頑張っている(が子どものためには頑張らない)」母親、好きな人がいてもセクシーな肉体に目を奪われるレズビアンなど、以前なら女性にはあまり振られなかった描写が嬉しい。

彼女は親友であって恋人じゃない、彼はバイトで子守をする対象であって友達じゃない、「大好き」と思われる・言われるだけじゃなく恋人になって欲しい、関係に名前を付けて落ち着きたいと思ってしまう気持ちは分かる。「レズビアンや12歳の男子に好きと言われた(他の人には嫌われてる)」というジュリエットの嘆きに対する担任教師の「素敵なことじゃないか」がいい。続く「好きになってくれない相手を好きになる必要はない」は監督が言ってほしかった言葉なのかもしれない、もしかしたら。

アンヌ・エモンの「ある夜のセックスのこと モントリオール、27時 」(2011)と「ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で」(2016)と本作とは、ダンスに先生、物を書くことなどで繋がっているが、何よりも皆、同じ世界に生きている。女は美人なら幸せ、そうでないなら不幸せ、それに沿って生きろという世界。どちらにせよジャッジされる側でしかないのだから、女である限り幸せになれないということだ。鏡の前で自分の体の完璧さを確認するネリーと洗面所にこもって下腹の脂肪を確認するジュリエットとは表裏一体なのである。前二作の主人公は自分なりのやり方でサバイブしていた(あるいはできなかった)けれど、少女のジュリエットに監督が用意したのは中指を立てるラストシーンだった。世界はいまだ厳しすぎるから、反抗していかなくちゃと私も思う。