あの日のように抱きしめて




「君はここにいる、もう目を閉じて想像しなくてもいい」


その年の一番のお気に入りだった「東ベルリンから来た女」のクリスティアン・ペッツォルト監督、二ーナ・ホス主演、ロナルト・ツェアフェルト共演の新作というので楽しみにしていたもの。見ながらふとチャン・イーモウの「妻への家路」を思い出した、どちらも素晴らしい映画。なすすべもなかった、大変なことをしてしまった、事情は違えど、何かが「終わろ」うと、それにより変わった「個人」は元に戻らない。


オープニング、暗闇の中にコントラバスとピアノによる「Speak low」。運転席に一人の女、助手席にもう一人の女、国境でのやりとり、橋、光、そしてタイトル「Phoenix」。作中「Speak low」のこのバージョンがもう一度だけ流れる。最初の女の「私達は過去へは戻れない/生きている人よりも死んだ人にとりつかれている」との告白を受けたもう一人の女が、男の漕ぐ自転車に乗って線路際をゆく場面。作中二人乗りは二度なされるが、一度目と二度目では背中のぬくもりが全く違って感じられたことだろう。


収容所から生還した主人公ネリー(二ーナ・ホス)の親友である「ユダヤ人機関」のレネ(二ーナ・クンツェンドルフ)が実に…素晴らしい。二人で暮らす仮の住まいへ越した日の、コートを脱いだ赤いブラウスにネリーへの愛を感じてはっとした。向かい合う夕食の席、家政婦がふさわしくないと思ってか止めたレコードをネリーは再び掛けるよう頼む。今度は男性(クレジットによると作曲者のクルト・ヴァイル自身)の歌う「Speak low」、作中初めてアップで映るレネが「いつか歌って」と言うと、ネリーは作中初めて笑う。


冒頭、レネとネリーの車がドイツへの橋を渡り掛けると、対向車のヘッドライトの強烈な光。後に二人が住む家の大きなバスルームには電灯が設置されているが、ネリーが点けようとすると、家政婦が「点けないで、虫が入って来るから/戦争中でもおかまいなしなんだから」と遮る。赤いネオンの「Phoenix」へ夜毎ふらふらと足を向けるネリーは、さながら光に引き寄せられる虫のようだ。ジョニー(ロナルト・ツェアフェルト)は舞台からの照明に浮かび上がったその顔を見て、彼女を連れ出す。


楽しみにしていたとはいえ、予告に遭遇する度に「あんなこと、ありえるだろうか?」と釈然とせず、実際に見ながらも途中まではそう思っていたんだけど、私が間違っていた。髪の色や目化粧の仕方を指示されたネリーが「こんなんじゃ収容所に居たように見えない」と反対すると、ジョニーは「囚人じゃない、ネリーだ」と返す。この断絶。そうなのだ、これは、大ごとを経た人の心は計り知れない、何だってありえるという話なのだ。冒頭のセリフは二人の身内、いわばほんの脇役の人物が口にするものだけど、「目を閉じて想像」しなければいけないような状態を強いれば悲劇が起こるのだ。


随所に「東ベルリンから来た女」に通じる要素がある。「車」や「自転車」、ロナルト・ツェアフェルトの手による料理(前作が「ラタトゥユ」なら本作は「サンドイッチ」)、ぞっとさせられる小道具(前作が「ゴム手袋」なら本作は「タールの付着したコート」)。そして女が重力から足を解放する姿。「東ベルリンから来た女」で強烈だった場面と似て、本作では、ジョニーの働く店の舞台に立つ女二人が楽屋でペディキュアを塗り足首を回している。どちらの作品も女の足が印象的…といってもいわゆる性的対象としてではなく、まるで自分の足がそれをしているように感じた。「パリで買ってもらった靴」を履いて歩く時、ああきっとこういう感じだろうと想像する。そう、「靴」も大切な要素だった。