ナミビアの砂漠


冒頭カナ(河合優実)が「どうしたの、元気ないね、食べてないじゃん」と女友達のドリンクを一口すくって差し出すのは自分もやりそうだと思う、何となく。「ぼく?」「すぐに?」とハヤシ(金子大地)の言葉をそのまま繰り返すのも自分がやりそうだと思う、分かっていながらの時間稼ぎに。若い女が陥りそうな状況と主人公の対応が延々と描かれる中、その心の内は読めないながら共鳴のようなものをずっと感じるというあまりない体験をしたけれど、それは他の映画に比べて時間的に彼女が映っている割合が多く長さ自体もあるからだと思う。こういう女はこれまでだって映画に幾らもいた。

カナが作業中のハヤシに「お腹空いた」と訴えても返って来る言葉は「あとちょっと」。例えば『天才たちの日課 女性編』『才女の運命』、私が子どものころ親しんだ少女漫画家が後年認めた文などから分かる、あるいは何も読まずとも想像のつくことに、家で仕事をする女が男のために手をとめて家事をするのは長い年月、いまだままあることだが男には少ない。後に動けない、声も出せないとなったカナがやはり作業中のハヤシの背後から杖で魔法を掛けると相手は振り向き笑顔で「どっか行こうか」。この場面から分かるのは、女の希望が叶うのは「たまたま」でしかないということである。

私にはカナは、遠い昔からの女の男への憤怒が溜まりに溜まった存在に見えた。リアルと言うなら男達の方がよほどリアルである。同居の恋人達の言動一つ一つだけじゃなく通りすがりの「ばか(女性器…別に普通の言葉だけどここでは書かない)」なんてセリフを映画に残しただけでも偉い。だって男は言うからね。一方で「おめえみたいな男が作るものは毒なんだよ」とは女の総まとめ的なところがある。

映画に出てくる順に言えば脱毛…介護脱毛、18歳の女子大学生の脱毛、「キッズ脱毛」の話題に始まりカナを取り巻く全てに男社会の害悪がある。序盤は中年女性のVIO脱毛につき同僚と軽口を叩いていた彼女が、ホンダ(寛一郎)が上司に連れられ風俗に行った(けど立たなかった云々)と聞けば「相手に失礼」、終盤にはハヤシが元彼女を堕胎させたことを責めるも「カナの知らない人だ」(彼女と自分の問題だから君には関係ない)と返され激怒する。彼らには性産業や妊娠中絶の領域における女の立場への怒り、とまで行かずとも配慮など皆無である。男には個人の問題だが女には社会の問題。これはカナが社会的な存在になっていく話である。

尤もカナは、端的に言ってあの歳だった頃の私なんかよりずっとちゃんとしている。冒頭から「ばか(女性器)」男に言い返したり大声を出した男に大声で怒鳴り返したりしている。嫌な思いをしたら嫌な思いをさせてやりたいと思い、出来得る限り実行する。そこから更に前へ進む。でもそれは私達上の世代の女の「(巨人の)肩に乗っている」わけではなく(ちょっと意味が違うけど)、ただただ手探りで進んでいるようで、色んな意味で見ていて辛かった。ただこういう映画を作る人達がいて、見る人達がいる、そのこと自体がいいと思った。