マグダレーナ・ヴィラガ/クイーン・オブ・ダイヤモンド/ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー


特集上映「ニナ・メンケスの世界」にて観賞。

妹ティンカ・メンケス演じる主人公フィルダウスがベッドに横たわる老いた男性の世話をする『クイーン・オブ・ダイヤモンド』(1991)の冒頭に、金銭をもらってしているのかそうでないのかと考えるが、そのうち女にとってはどちらでも同じじゃないかと思う。何度目かの介護の描写で男が彼女が差し出す匙を見ているのか彼女の体を見ているのか分からないのもどちらも同じだと思っていると、次の場面で男は死んでいるのだった。
『マグダレーナ・ヴィラガ』(1986)の冒頭でアイダを買う「一人目のJohn(ヨハネ)」は杖を持った小柄な男だった。私は男性を前にした時その肉体的な強さを頭の端で意識する。はがいじめにされるなどの被害に何度も遭ってきたから。この場面で頑張れば肉体的には「勝てる」かもしれないと思う。同時に二人きりのこんな空間であっても、実際には、肉体的にもあるいは社会的にも「負ける」だろうということ、いわゆるシスヘテロ女性の私自身は体の大きな男性を性的に好むということ、という矛盾と共に生きている。


『マグダレーナ・ヴィラガ』ではアイダと「孤児の姉妹」、すなわち家や男の保護の下にない(比喩としても)女達が訪れるダンスホールの、彼女らとはレイヤーが異なるかのようにくつろいでいる、女含めた客の人々が印象的だった。鏡の効果もありどこまでも続くように見えるその「外」の世界は、鏡に映っているのも壁紙である、全くもって「内」であるホテルの部屋と対照的だったが、『クイーン・オブ・ダイヤモンド』ではフィルダウスの職場であるカジノがそうで、彼女は「外」で働いている。しかし客とレイヤーが違って見えることに変わりはない。同じく「外」である、インストの『イパネマの娘』が延々流れる水辺の結婚パーティでは、愛し合っているかのように映る男女が家、すなわち「内」では殴り殴られているのだから他の人々もそうなのではないか、ひいては内も外も全てがそうなのではないかと思われてくる(これはアンドリュー・ヘイの『さざなみ』のラストに通じた、暴力は絡まないが)。映画の終わりに二人が消えていくのが不吉だった、私達から見えなくなったら殴られるんだろうと。
しかしそこを抜け出した足を持たないフィルダウスがヒッチハイクをし、ハンドルを握っている男達による世界へ入っていくのは悲しさよりたくましさを感じさせた(そのように撮られていると思った)。


三作のうち最初に見た『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』(2022)では映画における男と女の撮影方法の違いが語られていたけれど、『マグダレーナ・ヴィラガ』でティンカ・メンケス演じる主人公アイダが登場した際に長くはっきりと映されるその顔の、日本のメディアが「消しましょう!」と脅してくるしわの数々は素晴らしかった。嫌で嫌で仕方ないという「仕事」をしている時の濃く装われた顔はここでは外圧によって作られているのだと分かる。『マグダレーナ・ヴィラガ』や『クイーン・オブ・ダイヤモンド』は女を見てくる男達の方こそ見てやるべきなのだと言っており、前者において男の一人が足を組んでこちらに靴の裏を見せてくる描写のリアルさや後者で画面から女が消えた後に男二人の方が残るメッセージ性の強さがよかった。
『ブレインウォッシュ』では『軽蔑』の尻のシーンに「ゴダールが皮肉としてこれを撮ったとしても見た女性の心には傷がつく」と語っていたのが肝だった。文脈を問わないパワーというものもあると言っている。だから理屈のつけられる『パリ・テキサス』や『TITANE/チタン』なども例に引かれているんだろう(例えば『チタン』のあの画は一人歩きしてパワーを持つ、持っているでしょう?)。そういう目でメンケスの過去の二作を見ると私には判断に困る場面も幾つかあった。人は変化するものだから、メンケス自身が過去の作品に思うところもあるかもしれない、それを知りたいと考えた。