ロビンソナーダ 私の英国人の祖父


ジョージア映画祭のよみがえる歴史的名作特集にて観賞、1986年ナナ・ジョルジャゼ監督作品。映画祭のプログラムによれば脚本を書いたのは彼女が師事したイラクリ・クヴィリカゼ監督、当局の許可を得て撮影を開始するまで5年が費やされたんだそう。私が唯一見たことのある彼女の『シェフ イン ラブ』(1996年フランス・グルジア合作、イラクリ・クヴィリカゼ脚本)同様、1920年代の赤軍侵攻前後のジョージアを舞台に異国の男と現地の女の恋が生まれて潰されるさまを描く。回想のセピア色、男の夢の現在と同じように鮮やかなカラー、絵あるいは写真、トリビシの市電?を外から中から捉えたおそらく当時の実際の映像などが組み合わさりジョージアを描き出す。

「大切な植民地インドとロンドンを繋ぐためイギリスはデリーまで電線を敷き、その保守点検のために技師を派遣した」。ジョージアのある村に帝国主義の末端、波の端っことして国旗とウィンチェスター銃を抱えてやって来たイギリス男ヒューズの死と村の女アナとの愛の謎の解明を二人の孫である音楽家の男(祖父と二役)が求め、映画そのものがそれに応える。最後に流れるのは彼が指揮する「ヒューズとアナのテーマ」。「彼は私にアイラブユーと言った」と「現在」のアナが話すのが、役者の演技であろうと実際にあの時代を生きたことには違いない女性の顔と声として妙に生々しく映った。

そんな国なのだから、あるいはどんな国だって、国のために働く男のところへ女を送ってよこしてもおかしくない(この映画のようなことが実際にあったか否かはともかく)。彼女らが何をどう考えているかはこういう女性が描かれる時の常として描かれず(あるいはコミカルに描かれ)ヒューズのベッドにいるところをアナに銃で脅されて初めてこんなところは嫌だと出て行く(こんなことをしなければならない立場に追い込まれるのが女、いや昔の女というものだ)。反対に自分の意思でもって彼のベッドへやって来るのがアナというわけだけども、『シェフ イン ラブ』もそうだったけれど、自由を象徴する愛の喜びを若い女の無邪気で献身的な愛に負わせている感じがして見ていてきつかった。

アナの兄で革命活動家のネストルとヒューズの関係はその点、ラヴァレンティの「時代は変わる、昨日はあいつが隠れていたのに今日はおれが隠れている」じゃないけれどどちらもどちら、どちらも当事者(だからあんな最期を辿る羽目になる)。仲間の演説を遮ったヒューズの家へ踏み込んだネストルの「君は何キロだ」「80キロ」「私は86キロだ、怖くないか」からのボクシングの一戦の面白さ。「電線に止まればイギリスのカラス、飛び立てばジョージアのカラス」と大真面目に話していたヒューズは家を追われ、イギリス領である電柱周りの土地で寝起きを始める。国の命に従えば確かにそれが最善なんだから実にコメディの基本を見るようだった。