ダンサー そして私たちは踊った


(以下少々「ネタバレ」あり)

ここに描かれているのは何を置いても恋の喜びである。遠目に気にし合うのに始まり、シャワールームでの奥床しくも大胆なアピールを経て、まるでそう、ヨーヨーを相手の眼前まで投げ付けてはぶつかる前に引き寄せるかのような応酬が続いた後の初めての、キス…じゃなくまずはしごき合いというのがいい。しかし主人公メラブ(レバン・ゲルバヒアニ)の笑顔は、新婦がおそらく喜びのではない涙を浮かべる結婚式の裏側において潰えることになる。恋は「伝統」の下で激しくも人知れず始まり終わる。

恋の喜びを押し潰すのは「伝統」である。括弧書きにしたのはメラブの属する国立舞踏団の講師の言葉「ジョージア舞踏の基本は男らしさだ、繊細さは要らない、かつてはあったが50年前になくなった」による。国の都合によって作られた伝統があるというこの事情は、「おふくろの味」や「専業主婦」といったものが実はそう長い歴史を持たないという日本の例にも通じる。「ジョージア舞踏はセックスと無縁だ」とは、これも例えば「(政治以外の分野において)政治の話をしてはいけない」という意見は政治から無縁どころか非常に政治的な意見であるのと同じで大変にセックスに踏み込んだ姿勢である。

上意下達の権化のような講師が作られた伝統の固持に務めている一方、更に上の偉いさんは、ジョージア舞踏とは何かとの問いに「伝統です」と答えたメラブに対し「完璧さを目指すものではない、それは精神なのだ」と返す。今を生きるジョージア人の気持ちを表現するという意味かと思いきや、映画のラスト、彼は心そのままに踊るメラブに憤慨して練習場を後にする。50年前より昔の時代も知っているだろう老人の心の内が私には読めず、彼の生きてきたかの国の歴史を思う。

オープニング、バスの中で中年女性に上着を直してもらうのに始まりメラブが女達に優しくされる場面が続くのは、この国では男は人に優しく「できない」のだと言っているようだ。それが終盤、彼の頬に置かれる、自分より「上」の男である兄の大きな手。「俺はここに残って太ったおやじになる、お前はここを出るんだ、ジョージアに未来はない」とのセリフに「シング・ストリート」を思い出したものだけど、あれはかつて、これは今。私は彼は国を出ると見たけれど、どうあれ映画は(講師も含め!)舞踏団に新しい風が吹き込む様、希望を描いていた。