私のお祖母さん/スヴァネティの塩/大いなる緑の谷


岩波ホールで開催されているジョージアグルジア)映画祭にて三作を観賞。



▼「私のお祖母さん」(1929/コンスタンティネ・ミカベリゼ監督)と「スヴァネティの塩」(1930/ミヘイル・カラトジシュヴィリ監督)は共に上映時間が一時間程度のため二本立て。「小ブルジョア、死ね!死ね!死ね!」で終わる「私のお祖母さん(祖母=後ろ盾)」はまずは映像の工夫の数々が楽しく、奴らは椅子を交換しあっているだけなのだ、でもって何もせず座っているだけなのだと訴えるクライマックスも鋭利。


前半の舞台装置で官僚達が円卓についているのが面白い。空いた役職をめぐって争う時、男二人は両側から一つの椅子ににじり寄る。「死体」の処理もする雑役夫が階段の上方に陣取っているのには、「高みの見物」的な認知はどの文化にも共通なのだと思わされる(ただし多忙になると上に戻れない)。この装置と後半の建物内のセットとの間に挟み込まれるロケによる場面で当時の街並みが見られるのも楽しい。役所の建物(豪奢なのか普通なのか、断片だから分からない)、市電のレール、市電そのもの、公園。


「宗教や慣習より強いものがある」とボリシェビキを称揚する「スヴァネティの塩」では、道路が無く孤立しているために塩、いや何もかもに飢えるスヴァネティ地方の「厳しい自然、辛い労働、変わらない生活」が強烈に映し出される。冒頭の、「領主が目の敵にした」塔をウシュグリの住民が守る、ちょっとした、攻城戦ならぬ攻塔戦にはわくわくしてしまった(笑)板に石をはめ込んだ橇に重石として乗り、赤子をあやし編み物をしながら牛に引かせる脱穀作業のめまぐるしい映像も圧巻。羊毛を扱う器具は「デデの愛」(感想)で見た、風景も、と思っていたら舞台が同じだそう。今でも形を変えた慣習に締め付けられているのかと苦しくなる。


先月同じスクリーンでフラハティの同時期の作品を見たばかりだから、人々の暮らしを捉えるといっても色々だな、よそからやって来た者の目線でもなく自身を顧みる目線でもなく…と思っているうちに目線の正体が判明してくる面白さ。映像には撮り手の視線が内在している、人は見たものから物語を作る、という当たり前のことを今更ながら思った。


サイレント映画二本の後の「大いなる緑の谷」(1967/メラブ・ココチャシュヴィリ監督)のオープニングの農機のエンジンは轟音に聞こえたものだ。画面の真ん中を我が物顔といったふうにやって来る男が「聞こうとしない」のは彼が今しがた脱いだ洗濯物を投げやる妻の言葉か、と思いきや二人は夫婦でない、いやこの女の夫は彼でない。この特集上映で見るジョージアの作品はいずれもこうした、少々トリッキーなセンスに彩られている。


「スヴァネティの塩」は「宗教によって人々が滅ぶ」と主張していたが、こちらには「いつの間にか体の自由が利かなくなった」老いた男による「一家はこの仕事(牛飼い)の生贄だ」とのセリフがある(映画がそれを認めているわけではないが)。しかし私にはそうした問題よりも、冒頭からセックスが満ちているのが印象的だった。性行為の描写があるわけではなく、性行為が保たれているのだから関係も保たれていると信じる者の存在とでも言おうか。一家の父ソサナのことである。


先日「マジック・ランタン展」を見たところだから、映写機が出てきたのがタイムリーだった。夜の団らんにテレビを囲んだように、ソサナがどこかで買ってきたのであろうスライドを掛ける。二度目にはまたこれ?というので妻は席を外し息子は寝、それじゃあとポケットから出すのが自作のスライド。前の場面で息子に洞窟の絵を見せていたのと繋がっているようでもあるし、後世のホームビデオのようでもある。察知や予感に満ちた奇妙な絵だった。