ある女優の不在


私は悪くない、悪くなかったよね、だって、だって…と女優ジャファリ(ベーナズ・ジャファリ)が確認のためにこれまで縁のなかった場所に向かおうとしている冒頭は、私には時が止まっているように、あるいは進むべき時が進んでいないという意味で後退しているように感じられ、その独特さに心惹かれた。

車を運転するパナヒ(ジャファル・パナヒ監督)が村の一本道におけるクラクションの慣習について村人に訊ねる辺りで、作品の輪郭が見えてくる。彼の「分かってはいるけれど詳しく知りたくて」という言葉は私には大変奇妙に感じられ、都会からやって来たこの二人はやれることがあるのにやっていない、これはそれを告発する映画なんじゃないかとふと考えた(しかし彼のこのセリフをどう解釈するかは本作を見た他の人達に聞いてみたいところ)。

女優を目指すマルズィエの従姉妹が後に語る、クラクションを鳴らさずとも済むよう道を広げようと鋤を手にしたら「それは男の仕事だ」と(言いつつ誰か男性がそれをやるわけではない)取り上げられたという話は分かりやすくも強烈である。女二人が徒歩で一本道をゆくラストシーンは、やはりやれることがあった、ルールを無くさないなら従わず脇をすり抜けていこう、ということだ。

パナヒの映画には元より主観ショットが多く(つまり他のショットは主観ではないと感じさせるということだ)、タクシーに乗っていた前作とJの文字の落ちたパジェロに乗っている本作ではそれは主に車の前ガラスからの映像となり、二作共にそれらがラストシーンとなる。前作では行き止まりに終わっていたのが、本作では彼が女二人を見送る形となる。役者と女の不遇を訴えるこの映画において、監督には、男には、ここまでしか行けないという真摯な認識の表れにも感じられた。