太陽と桃の歌


冒頭、子ども達が家に帰ると大人達が祖父を取り囲んで土地の件で揉めている。かつて騒動から匿った恩義にと地主との口約束で使っていた畑につき、当代から契約書がないならソーラーパネルを設置するから明け渡すようにと迫られている。一次産業とは土地ありきなのだとつくづく思う。

幼い子らにとっては土地も作物も遊びの場、道具だが、新しく基地にした桃の運搬箱を取り上げられよその畑に出向いて遊んだ(作物であるスイカを割って食べた)時には罰として祖父に労働を命じられるという描写が面白い。彼女らにとって作中唯一の「区切り」である。映画の始めと終わりに一緒になって遊ぶ子ども達は「男」と「女」、「労働」と「遊び」をまだ分かたない存在である。しかし既に祖父からあの歌を受け継ぎ贈り返している。「太陽が日雇い労働者なら朝日は寝坊するだろう、侯爵が収穫者ならみな飢え死にするだろう、歌うのは声のためじゃない、私のために命をおとした友のため、土地のため、故郷のため」。

長男ロジェの伯父シスコとのとうもろこし畑での時間には「密会」の匂いがある。やばい、義兄さんに見つかるぞと言われての表情が絶品で忘れ難い。この時を始め父が母に風呂場で体をマッサージしてもらっている場面など、この映画は男性の体毛を外でも内でも美しく撮っている。そして、プールでの伯父の前での言動からしても私にはロジェはクイアな存在に見えた。長女マリオナの方は大伯母の「グロリアの『友達』」との言葉を「伯母さんの『彼女』」と訂正し、「パパが伯母さんを(祭りの日なのに)帰らせた」と憤り、立つ予定だったステージに背を向ける。

父は害獣であるウサギの退治を女達から隠れるようにロジェと夜中に行い、ロジェを男手として頼りながら農家の抗議運動から遠ざけ学業への専念を命じ違う道に進ませようとする。先細りする稼業を自身に鞭打って一人で背負う父のこのやり方が家族に亀裂を生む…いや、小さければ問題にならない程度の亀裂が苦境に潰され拡がったように私には見えた。この映画では父のこのやり方がクイアの存在の排除と繋げて描かれ、ロジェとマリアナはそのことに反抗しているようにも見える。父が日雇い労働者の数を三人に減らしながらこれまでと同じ労働量をこなそうとするも困難だが、後に一族で収穫に励む、踊る者あり遊ぶ者ありの畑の光景、その雑多さを思い出し、団結とは色んな存在の共生ありきなんだと考えた。