僕たちは希望という名の列車に乗った



「人は皆、何らかの体制に従属している
 自分で物を考えて決める時だけ、そこから自由になる
 君達はそれをしたから、国家の敵だ」

ラース・クラウメ(監督・脚本)の前作「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」(2015)は記録映像中のフリッツ・バウアーが「若者は歴史や真実を知ってもそれを克服できる」と語りかけてくるのに始まったが、本作も同じことを訴えている。親の世代には無理でも若者には出来る、真実を踏まえて沈黙することも列車に乗ることも、と。それならばもういい大人の私には何が出来るかと考えると、同じことが出来るならそうすればいいし、寄り添うので精一杯ならそれでもいいんだと思う。

1950年代の東ドイツで大学進学クラスに通う市議会議長の息子クルト、労働者階級の一族内で初めて進学したテオ、赤色戦線戦士同盟の一員として死んだ父を誇りにしているエリックの三人は学校で歪んだ歴史教育をなされ親には何事かを隠されている(尤も後者の隠蔽は市民の心情的には「よく分かる」ことだが)。本作が描くのは彼らがそのことを乗り越えてゆく姿である。

印象的なのは少年らが酒場でソ連兵に豆を投げて笑いながら逃げたあげく捕まる場面。彼ら同様ソビエト侵攻時には子どもだったであろう若い兵士に「好きで来てるんじゃない、ナチスめ、ぶち殺してやりたかった」との言葉を投げつけられるのだ(これを受けるクルトは親衛隊の祖父を亡くしている)。

共産主義への従属を強いられる中、ハンガリー動乱の犠牲者に対する黙祷を報告した歴史教師をなだめる校長(フロリアン・ルーカス)を不思議に思っていたら、労働者階級の出の彼は体制下で初めてこのような職につき同じ階級の子らがつつがなく出世できるよう望んでいるのだった(テオに対する「君はブルジョアとは違う」とは実に本音だろう)。しかし彼も「止まっている」ことに変わりない。

三人は話の始めはふざけあったりじゃれあったりと仲がよいが、クルトが黙祷を提案した辺りから雲行きが怪しくなる。体制は「一致団結」に次から次へと攻撃を仕掛ける。「亡くなった人々を悼もう」というシンプルな人間愛の発露によってこんな揺れが生じるなんてやはり変だ。そもそも同じ教室に集う生徒達の事情が様々だなんてそんなことは当たり前であり、そのことで分断が引き起こされるのがおかしいのである。

「皆で西へ行こう」と父(ロナルト・ツェアフェルト)に言うも無視されたテオは「パパはなぜここに残るの」と母に尋ね「ここで生まれたから」と返される。パウルの「アナーキスト」の大叔父はソ連軍に爆撃された家に今も一人住む。ピアノに向かう姿に、彼にとっての湖だってピアノだってその先には一時の自由以外に何もないじゃないか、対して彼が送り出す若い彼らの列車には行き先があるじゃないかと考えた。