小さな同志


EUフィルムデーズ2019にて観賞。2018年エストニア、モーニカ・シーメッツ監督作品。

映画の最後に「本作はレーロの自伝に基づいている」「スターリン時代に苦しんだ全ての家族に捧げる」との文章と親子三人の写真が出る。少女の母はKGB教育庁下の学校においてエストニア国歌を歌ったなどの罪で捕らえられた。

祖父の「エストニア人の苦悩などスターリンは気にしていない、食べて飲めることを喜ぼう、アメリカかヨーロッパが助けてくれるのを待とう」なんてセリフに「僕たちは希望という名の列車に乗った」と比べてしまった。こちらは列車を待つしかない身の物語。となればふりでも何でも順応が求められ、そこからの回復もまた厳しい道のりだろう。

大木の元で母と娘が語らうのに始まる本作には、エストニアの美しい自然がよく捉えられている。大仰なものじゃない、身近な木や草、動物達。加えてお出掛けの際に自分で選んで身に着ける洋服やアクセサリー、両親を待ってテーブルに飾る花、一人で遊ぶ動くおもちゃ、それらは大人達の言動に惑うレーロが生命の尊さや愛らしさといったシンプルな美をよすがとしていることの表れに思われた。

だって、「私のクマ」を取り返しただけなのに怒られる、植木鉢を落として怒られたのに自分をそうさせた当の黒服の男達は家の中を土の付いた靴で汚すのだから。父に「同志というのは昔の貴族みたいに立派な人だ」と聞いたから私は同志だと口にすると、伯母達に「子どものうちから共産党員なの」とあきれられるのだから。何が何だか分からない。

余裕のない父はレーロに歩調を合わせることができない。追い詰められている時、人は子ども、あるいは相手と自分との異なるステージの間を知性や思いやりで繋ぐことができない。だから祖父の誕生パーティにおいて、彼女は皆が囲むテーブルではなくその下でお茶を飲むのだ(「おばあちゃんは脚の血管が浮き出てて怖い」なんて言うのもそう、ステージが違うからなのだ。誰かが何か言えば気持ちが変わるかもしれないのに)。

今世紀に入って目にすることも少なくなった女の職場としての美容院という舞台が本作では見られる。ロシア国民であることのみを楯に一度寝た男の妻であるレーロの伯母に金をせびりに来るあの女、一体彼女に生計を立てる手立てがあったろうかと考えた。