さよなら、退屈なレオニー


冒頭の、代父母をも呼ばれての卒業祝いシーンにふと、子どもの頃の「周囲の大人達が私の話ばかりする」時の苛立ちを思い出した(勿論それは「贅沢」とも言えると今は分かっているのだけれども)。レストランの椅子に沈み込んで小さくなったレオニー(カレル・トレンブレイ)はまるで「不思議の国のアリス」の縮んだアリスのようだが、「一服」して、更にバスを捕まえて元の大きさに戻る(少なくともダイナーでは彼女は同級生の皆と同じ大きさである)。

これはまず移動の映画、距離というよりその心意気の映画であって、オープニングで何かを待っているようにも見えたレオニーが歩き出し、あることを知って自転車を漕ぎ、最後には再度、真にバスを捕まえる。大人達は地下から地上に出る者もあればいつもと同じ往復を繰り返す者がいる。そう考えた時、最初に道に立っている彼女は地図に刺されたピンみたいだとも思う。そういうピンの数々を優しく見ているような映画だ。

「生まれた時からここに住んでる」「知らなかった」のやりとりに、振り返ればスティーヴ(ピエール=リュック・ブリアン)こそこの町の蛍のようだと思う。面白いのはレオニーと彼の間に現実にはあり得ない、映画ならではの言語によらないコミュニケーションが成り立っているところ。光の下に連れ出されて演奏したスティーヴがその高揚に同じ方向ではなくギターでもなく初めて隣の少女を見ると、レオニーは静かに拒否する。卒業を控えた彼女がライブに誘うことであなたもどこかへ行かないかと問うと、スティーヴは動かないバイクにまたがり意志を表明し、レオニーは頬を、心を寄せる。

「愛がなんだ」の主人公は友人に「何があってもしっかり食べるところが長所」と言われていたものだけれど、こちらのレオニーもよく食べる。といってもきちんとした食事ではなく大抵は一人でせかせか何かをつまんでいるのに過ぎないが、ネガティブな感じがないのがいい。作中一度だけ、彼女とスティーヴがとある場所で二人揃ってチキンとポテトを食べる姿には、なぜかふと「バンド」という言葉が浮かんだ。すごく変なことを言うようだけど、あれが彼のバンドじゃないかと。