ポリーナ、私を踊る



母親に手を引かれてダンスの世界に足を踏み入れる一人の少女。映画は突然目の前で始まる、一見ラフなダンスのようで、訳が分からず戸惑ってしまったが、次第に見えてくる。主人公ポリーナ(アナスティア・シェフツォワ)が世界に馴染むまで、世界を掴むまでの過程を私も体験しているのだと。「皆」は普通にそこに居るのに自分は居られない、あの感じは「ダンス」に限ったことじゃないから、ダンスをしたこともなければ知識も無い私にとっても、心の沿う映画だった。


始めのうち後頭部ばかりで登場するボジンスキー先生(アレクセイ・グシュコフ)は、他の子達のように「言う通り」に出来ないポリーナの体に手を添え、「私ではなく遠くを見る」よう助言する。少女時代の練習のパートが「先生はなぜ私を見ないのですか」に終わり、場面が替わると成長した彼女から彼が目を決して離さない(それは一見、叱咤するためのようにも映る)というのが面白い。長く厳しい道のりが想像できる。


チョコレートを齧るリリア(ジュリエット・ビノシュ)いわく、「コンテンポラリーダンスは古典バレエと違って重心が低い」。訓練された競走馬のような足元と、裸足か靴下に膝にはプロテクターの足元。「表面の美しか見せてはいけない」と「自分をさらけだして」。「アーティストは完璧を求めるものだ」と「こだわりがありすぎる」。「休まず練習」と「休みも大切」。「真逆」のように置かれた古典バレエとコンテンポラリーダンスの世界において、尊敬する人に認められたい一心のポリーナは混乱する。振り返るとどちらの指導者も正しかったのだと思う。演じた役者二人も素晴らしかった。


この映画のいいのは、自分に合わないと思えば次々と場所を変えていくということを肯定している点だ。終盤、父親とポリーナの間で「何があったんだ」「特に何も」「そんなはずはない、何かあったんだろう」というやりとりがなされるが、彼女にとっては本当に「何もなかった」、つまり移動なんて当たり前だったのではと思われる。ボリショイ学校に入ってからたまたま身に付けていたフランス語が(身近でニールス・シュナイダーが喋っていればそりゃあ喋りもするか、という気もする・笑)役に立つというのも面白く、語学とはいつでも動けるためのアドバンテージなんだということを教えてくれる。


作中最初に描かれるポリーナの覚えた違和感は、学校でボリショイバレエについての説明を聞く回想シーンと、父親の「仕事」先とが交互に映される場面だ。踊りと私とが乖離している。それが移動に移動を重ね、踊りに踊った終盤には、バイト先のバーでの客の仕草や喧嘩、更には地下道のホームレスや友人同士の動きがダンスに映り、自身のめまぐるしい生活と振り付けとが一体となって混じり合う。それこそが、父親にはっきりと言った「世界を見たい」ということの実現、「私を踊る」の実現なんである。その果ての、ポリーナとボジンスキー先生とが向かい合う場面からは、自分の見るべきものを見ることが出来る者同士こそ、きちんと向かい合って互いを見ることが出来るのだということが分かる。


ロシア、フランス、ベルギーというそれぞれの土地の描写も面白い。「汚れたダイヤモンド」(感想)ではニールス・シュナイダーがアントワープ駅に降り立っていたけれど、本作では彼演じる恋人の元から発ったポリーナがアントワープ駅に降り立つ。この映画の更にいいのは、例えばシュナイダー演じるパートナーもアントワープで知り合うカールも、彼女とぴったり心が沿っているわけではない(かといって「相反」するわけでもない、「どちらか」ではない)という点。人との関わりは重要だが、やりたいことをやるには一人で十分なんだということが描かれている。