エフィ・ブリースト


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー傑作選にて観賞。登場人物が話す相手を見ない時…とりわけこういう類の映画にはよくあることだが、なぜかこの映画では…何を見ているか分からないその目の持ち主になったような、その人の中に入り込んだような、奇妙な感じがした。

1974年作品、原作小説は未読。冒頭「諦念の物語も悪くない」と出るが、エフィ(ハンナ・シグラ)の父親が映画の終わりに口にするようにこれは世の全ては「私達の手に負えない」という話であり、なぜ手に負えないのかとの理由はエフィの夫インシュテッテン(ウォルフガング・シェンク)が長々語ってくれる。ファスビンダーの映画は常に筋が通っており作中その筋が説明されるが、本作ではこの男が親友に「憎悪のためでも幸福追求のためでもないがやらねばならない」と説くと相手が「それなら仕方ない」と返す場面がそれにあたる。それにより一人の男が死ぬ場面では、エフィが女の子を生んだ際に言われる「次は男児を…ドイツは戦勝記念日の多い国です」がふと頭をよぎった。

映画はエフィが庭のブランコを漕ぎながら母親と話しているのに始まる。後にエフィは「落ちそう、という甘い危険を楽しみたい」とブランコの快楽を説明するが、クランパス少佐(ウリ・ロンメル)に手を取られた時の「失神するかのようだった」はそれにあたるんだろう。彼女は落ちて、それが罪とされたわけだ。気を付けるよう母親に言われていたのに。

物語はエフィと母親、エフィと姉妹(親友?前列の女性の演技が忘れられない)の会話に始まるが、結婚して田舎町に引っ込んでから女同士のやりとりはなくなる。登場時にちょっとした斧の下で料理をしていた使用人頭のヨハンナ(イルム・ヘルマン)が労働の歌を歌う料理人の女と帰りに話をした後日(というのがリアル、話題になることで身近になる)エフィに「上の階のあれが怖いなら」と添い寝を申し出るもインシュテッテンによってやめさせられる(このエピソードは小説にもあるのだろうか)。エフィは墓地にいたロスヴィータに「私の見立ては絶対」と声を掛け乳母として家へ呼ぶ。カトリックだという彼女が「父親に殺されそうになった時が一番恐ろしかった、それに比べたら神様なんて」と話す姿は、古典そのままであることに意味のある本作の中でもどうしようもないほど立ち上がっていた。

婚約したエフィに母親が言うには「その年で40歳の女も手にしていないものを得る」…この世は恐ろしい、そんな権力を簡単に他人に与えてしまえる存在、が存在することが。前日「ジェーン B.とアニエス V. 二人の時間、二人の映画。」に出向いたところだったので、17歳にして20も年上の男と結婚するというエフィの姿にジェーン・バーキンを想起してしまった。彼女の方が惚れたのだし結婚したわけでもないけれど、クランパス少佐の「彼は生来の教育者、教育というのは正確な言い方じゃない、間接的な意味」というのに、『アニエスv.によるジェーンb.』でセルジュが歌の指導をする様に、別れて利害・支配関係から解放された男女の関係は気楽なもののはずなのにどこか居心地の悪さを覚えたことを思い出して。