辛口ソースのハンス一丁


イスラーム映画祭にて観賞、2013年ドイツ、ブケット・アラクシュ監督作品。トルコ系移民二世のジャーナリスト、ハティジェ・アキュンの自伝小説が元なんだそうで、映画制作から十年以上経った今、作中の皆、いや著者はどうしているだろうと考えた。作中のハティジェが父親の車の助手席に乗るといつも(なぜ他の家族はいないのかという謎は終盤解け、更に彼女は運転席をようやく得る)「幾つになった(=結婚は?)」と言われるという回想シーンで、車内は時代ごとに随分な変化を遂げていたから(始めの方の何年かとその後の何年かじゃ変化の度合が違うだろうけど)。

タルカンが来るの知ってる?」「私がトルコ人だから?」「いや、君の部署の話題だから…」とのやりとりに、同じトルコ系の相手に言われてもイラつく程のストレスの多大さを思う。同時に若干の、私もタルカン聞いてたな、そのくらい有名じゃないと聞かないなんていけないなという後ろめたさを覚える。ちなみにハティジェの部屋のベッド脇に日本画が飾ってあるのは、世界の他の国々も存在していることのアピールだろうか(話がそれるけど前日見た『コール・ジェーン』には、60年代には「ハンガリー」を架空の国だと思うアメリカ人もいたらしいことが描かれていた)。

コメディとの紹介文に惹かれて見たけれど、コメディにしなければ映画として見られないほどきつい話だと言える。従姉の結婚式でのハティジェの「ごめんなさい」には内心、最大級の「お前が言うことない」が出てしまった。「ハンス」に謝る必要はあるけども、それだって父親というか家父長制のせいだ。父親がハティジェのコートの襟元のボタンを留めるのはトルコ人男性に特有のことなのか、そこに娘をいつまでも子どもと思っているとか支配しているとかの含意があるのかと思いながら見ていたら、ドイツ人の「ハンス」もそれをやる、作中の意図がよく分からなかった。話の発端が妹の妊娠というのには、結婚したい、子どもを持ちたい相手とのそれであっても不具合な時期には違いなく、主人公の境遇における避妊など妊娠周辺の意識はどうだったのか(今はどうなのか)を知りたく思った。