これが私の人生設計



とても面白かった。「昔ながら」を受け継いだ「イタリア」の映画だけど、「今」の「世界」の映画。過剰なほどの「コメディ」なのに終盤涙が滲んだところに、「私が女じゃなかったら、理想のカップルだった」とのセリフに崩壊してあふれてしまった。「今」の映画だからこそ、今度は主人公と「ゲイ」の男女が逆転したのが、あるいは舞台が「日本」のが見たいな、などと考えた。


「女の主人公と男の『ゲイ』の友情」など映画で何度も見てきたけれど、本作の冒頭のセレーナ(パオラ・コルテッレージ)とフランチェスコ(ラウル・ボヴァ)の「なれそめ」の描き方には、たまたまそうなったのかもしれないけど感に入った。セレーナの前にフランチェスコが登場する時に流れるベタな音楽の「続き」を彼女が歌い踊るというギャグには、性的魅力とは受け手が生み出すものだという当たり前のことが見て取れる(一方から一方への「それ」の氾濫は、そのことを覆い隠し見え辛くしてしまう)またフランチェスコは初めてセレーナを送った際「楽しかった、頑張って」と、一緒に居たいのは楽しいからだ、自分は彼女を励ましたいのだという気持ちをきちんと口にするが、彼女はそれならば当然と尚も「性」を求める。となれば「土曜日につきあって」と無理やり目をこじ開けるしかない。


映画の始め、セレーナは二度「足止め」される。一度目はフランチェスコに出会った時、二度目はバイクを盗まれた時。オープニングからせわしなく動き回っていた彼女が「足を奪われ」るのは、それを残した父親が何かを伝えているよう、最後にある人の手によってバイクが「帰って」くるのも父親が導いているようだ。バイクを盗まれたセレーナが図らずも一息つく場面でやっとこちらも一息つくと、カメラがぐーっと上って巨大な住宅を、まるで空飛ぶ鳥の視点のように捉える。気持ちが軽くなると同時に、「ディーパンの闘い」において「ディーパン」が心機一転、仕事に出掛ける朝の、やはり郊外の団地からぐんぐん上ると見せかけてふっと止まってしまうカメラを思い出した。


「そこの主は、そこに住む人」という話でもあった。団地の階段が見つからない女性が、始めつっけんどんだが自室に着くと優しくなり「ケーキでも」と言い始めるのが面白い(「緑」の癒し効果もあるのかなと思ってしまった・笑)フランチェスコの家に「これだけ?」の荷物と「仕事の道具が少し」でやってきたセレーナが、次第にいわば真の住人になっていくのもいい。会議の前の晩、翌日に備えて散らかった部屋でソファに腰掛ける二人を少し引いて捉えたカットが心に残った。またまさに「彼」であふれているフランチェスコの家が、息子を迎えるにあたり、自身によって偽られるのも「象徴的」だ(これはセレーナの会社での、彼女や他の社員の姿に対応している)


私は行ったこともないイタリアに対し「男」や「女」というものが過剰であるというイメージを抱いているけれど、この映画によると、イタリアは「時が止まった」国である。ジェンダーについても建築についてもなかなか「新しい」方には進まない、というふうに描かれている。ロンドンで才能に見合った仕事をしていたセレーナは「イタリアに帰ろうかな」と口にして周囲を驚かせるが、(作中の描写では)食事や天候などが恋しくて「死んだ」国に戻る。彼女が働くことになる会社には色んな人達が居るが殺されている、それは「イタリア」(あるいは勿論、どこかの国)の縮図のようだ。向かい合った二組の男女が一見同じようなことをしている、あの場面の滑稽さ!見事に笑わせられた。