最悪な子どもたち


オープニングは映画出演のオーディション。カメラのこちらの後にベルギー人と分かる年配の男性の声の「映画が複雑だから分かる人じゃないと」に内心わはは!と笑ってしまった(映画の方が実際の人間より「複雑」だと思ってるんだ!)。コメディにできるのにそうはしないのが新しい、私はベタでもコメディが好きだけど。

この映画のライアンは「じっと座っていられない」、ジェシーは「出所したばかり」、「その役を演じるために役者が選ばれる」とはどういうことなのかを作中劇のオーディションを通じて問うてくる。しかし今更何なのかと思う。「作中の二人のつもりで質問に答えて」なんてレッスンでのリリ(マロリー・ワネック)とジェシー(ロイク・ペッシュ)には結局のところ人はいつも演技をしているようなものなのだという言い古されたことを思う。32歳のスタッフに恋をしたリリは鏡の前で作中唯一の「演技の練習」をする。

ジェシーがベッドシーンの撮影中に「このカマ!」と怒鳴るのは、「見られる」側を初めて経験しての不快感に思われた。それを同性愛嫌悪の土壌に乗せ「ゲイに尻を見られた」と解釈したんじゃないだろうか。撮る・撮られるは見る・見られるにスライドするというか根が繋がっている。作中の団地の若者はおおむね同性愛を馬鹿にしているがレズビアンも普通にいる(しかしあの大仰な示唆カットは変だと思った)。ランチの席でマイリス(メリーナ・ファンデルプランケ)がリリを侮辱したジェシーを非難し「レズは黙ってろ」と返されるのに、こういう場での差別を潰す責任は映画の作り手側にあるのだろうかと考えた。私はあると思う。

作中劇のラストシーンにして映画の終わりのライアン(ティメオ・マオー)は、画面の中にいる少年そのものであると同時に映画監督ガブリエル(ヨハン・ヘルデンベルグ)以外の何者でもない。更にこの映画の作り手の姿にも思われた。ガブリエルの描写に最も作り手の迷いや誠実さを感じたから。映画に最後に残るのは…コアは作り手そのものなのだと胸打たれるのと共に、それは当然のことでこの映画はそれを訴える域を出ていないのではとも考えた。