映画 窓ぎわのトットちゃん


『窓ぎわのトットちゃん』は元がそうだからなんだろうけど随筆に近く、執筆時(1981年)の黒柳徹子の思いや説明がそれぞれのエピソードに付されている。それをしない映画では作中のトットちゃん(大野りりあな)がその役割を少々担っており、実際には自分が退学させられたと知らなかった(本においてそのことにつき母親に大変な感謝を示している)彼女が「なぜ皆は私を困った子っていうの?」などと聞く。従って私達は小林宗作校長先生(役所広司)の実際の返答「君はもうこの学校の生徒だよ」はトットちゃんのママ(杏)への報告で間接的に知ることとなる。

本によれば校長先生がトットちゃんにいつも言っていたという「君は本当はいい子なんだよ」がいわば特別な言葉として使われるのが当初残念だったけれど、見ていると彼女をその言葉が支えているように感じられ悪くなかった。映画の終わりにもう一度聞くことで、トモエ学園での時間とは彼女がこの言葉にくるまれていた時間だったと分かる。エピソードを提示する順番で多くを示唆しているのも面白く、例えば校長先生が泰明ちゃん(松野晃士)のために図書室を、高橋くんのために鯉のぼり競争を作ったように受け取れる。本では明言されていないことをそうして描写するのはかなり大胆というかきついアプローチだなと思った(一人のためは皆のためだからそれが「真実」だったとしても。それに「そう思う」という文を読むこととそう指し示す要素を映像で見ることには隔たりがある)。

「愛国」とある前の学校では、驚くような改変がなされていた場面で作中一度だけその言葉が出てきた「少国民」を作るための授業が行われている。中盤トモエ学園を「ボロ学校」と囃し泰明ちゃんを「そんな体じゃ兵隊さんになれない」と苛める(後半は本にはない描写)子らはあの教育の犠牲者なのだ。一方トモエ学園の授業はばらばらで、校長先生が「みんな一緒」と言うその一緒というのは同じ時に同じことをするという意味ではなく泰明ちゃんもプールに入ったり木に登ったりするという意味である。そのためには時間が揃えられるどころかむしろ無になる。トットちゃんの話を校長先生が聞いた時、トットちゃんが泰明ちゃんを木に招待した時、時は流れていなかったはずだ。

発売時に何度も読んだ私としては、お弁当の時間に校長先生が「海」というとちくわ、「山」と言うとお芋が奥さんが両手に一つずつ持った鍋から飛び出すというのが印象的でずっとイメージしていたから、仕切りがあろうといっしょくたに入っていたのがショックだった。泰明ちゃんが死んだあと教室の机に花が置いてあったのにも違和感を覚えた。トモエ学園は席が決まっていないから彼の死後も「空いた机」がなくてよかったと本に書いてあったのに。パパ(小栗旬)の「妻をじろじろ見るのはやめてもらおう」なんてセリフにも、あんなこと言うだろうかと思ってしまった。家庭での彼の「大きさ」は、本から受けていた印象よりずっと強くなっていた。