ぼくたちの哲学教室


ドキュメンタリーの舞台はベルファストホーリークロス男子小学校。冒頭の登校時の光景で女性の教員が校内に入る時はフードを取るよう指導しているのを思えば何故だろうと見ていたんだけど、作中挿入されるちょっとした屋外の映像から、フードとはまず雨や寒さ、ひいては危険から自身を守るものであり、学校はそれをしなくてもよい場なのだと訴えているのではと考えた。
日本の少なくとも私以上の世代には、校長先生の「皆が静かになるのに(あるいは集まるのに)○分かかりました」というのがお決まりとしてジョークになっているが(「ちびまる子ちゃん」などに見られる)、実際に爆弾が仕掛けられもするここでは冗談どころではない。「考え方の違い」を学ぶのに使われる教材も女子小学校への攻撃のニュース映像だ。起きたのは「たった20年前」であり、子どもらも祖母や母、姉の身に起きたこととして話す。

ケヴィン・マカリーヴィー校長の作中最初の哲学の授業は生徒に役割を振り発言者にボールを回すという基本的なやり方のシンプルな活動だが、ちょっと見ただけでこれが成立するのはこれまでの生徒と教員の頑張りあってこそと分かる。初めてだと言っていたけれど学級担任が見に来ているのもすごい(言っちゃあ何だけど、他の先生が授業している間は教材研究などにあてられる貴重な時となるから)。
目を閉じて好きな場所へ行く(なるほど面白そうだと思っていたら私なら数分のところを30秒。怠け者とは違う)、亡くなった人のためにろうそくに火を灯すなどのちょっとした活動の様子も挿入される。学校で行われることは全て子どもを通じて家、すなわち地域に持ち帰られることが前提であるが、校長は保護者を集めて直接話もする。相当努力している矜持がなければできない内容だと思った。いわく「高名な哲学者の説にうちの学校の生徒が反対意見を述べた、すごいでしょ」。

校内の至る所に書かれた校長の手による言葉の数々に、これが日本語なら私は相当うざく感じるな、でも言語、文化の違いかな、日本語は表意文字を使うしな、と始め見ていたんだけど、おそらくそういう問題ではなく、第一に言葉にすることで物事は「何となく」ではなくなり(先の女性教員いわく「どんな些細なことでも言葉にするのが大事」)、第二に一歩外へ出たら襲ってくる威嚇的な言葉や絵への抵抗であり、生徒や職員の皆を守っているんだろう。
ラストシーンはオープニングと対になっており、哲学者として生き始めた生徒をモデルにした壁画起点の町の空撮で、哲学による非暴力が学校から広がらんとする希望が伝わってくる。北アイルランドには政治や宗教が題材の戦闘的な絵や言葉を建物の外壁に描く慣わしがあるが、近年は新時代の平和的な壁画も広まってきているそうで、90年代のデリーが舞台の私の大好きなドラマ『デリー・ガールズ』(2018~)の5人も大きく描かれ人気の場所になっていると読んだ。