ウーマン・トーキング


話し合いから退いたスカーフェイスフランシス・マクドーマンド)の「ゆるさなければ村からも天国からも追放される」で彼女たちのメノナイト信仰を少し覗き見ることができる。「今までゆるしてきたのに何故今回はそうしないのか」、果たしてこれまでのゆるしは善きものだったのか、そうでなければ他に選ぶ道があるのでは、と女たちは話し合う。オーナ(ルーニー・マーラ)が作りたいと語る「新しい愛の宗教」ではゆるしはどう定義されるのだろうか。

話は目覚めた女のあざと血に始まる。私も幾度となく性加害を受けているがあざと血には無縁で、その理由は、多くの女性がそうであろうことに、信仰に基づく彼女たちの言うのとは違う形で、あるいは根本的には通じるもので、ゆるしてきたからである。しかし作中の「次の男を私の娘の上に乗せないためならば地獄で焼かれてもいい」には激しく共感する、娘がいなくとも、変なことを言うようだけど仮に自分自身のためであっても。なぜこっちが引き受けなきゃならないのかという憤慨は常にあれど、私たちは彼女たちと違うから、違う何かができる。

女たちの話し合いの中で、「加害者」を間違えていたらどうする、Not All Men、男たちも環境の犠牲者だ、気を引こうとして、なぜあんただけ辛いと思っているのか等々見慣れた意見の大体が出てくる。踏み付けられた側の意見の相違を描く映画は多々あれど、それってこうして現れるものだろうかと何故だか少し違和感を覚えた。オーナだけに、「余裕がない時に私たちがする」のとは異なる類の笑顔…ほころびそうな何かがあるのはなぜなのかも分からなかった(笑うなんてという意味ではさらさらないので、念のため)。愛するお腹の子の、あるいは「ずっと愛してる」と言ってもくれる相手のせいではあるまい。