マリアムと犬ども


イスラーム映画祭にて観賞、2017年チュニジア=フランス他製作、カウサル・ビン・ハーニャ監督。チュニジア革命後の2012年に起きた警察による性暴行事件に着想を得て製作された作品。章ごとワンカットの9章という作りが、その中身が演劇的なことと相まって効果的だった(とりわけ最終章で主人公と警察が交互に主張をぶつけ合うという、実際にはありえない場面など)。

『あのこと』(2021年オドレイ・ディワン監督)を思い出させる、主人公が親友と身支度をしているオープニング。舞台は何十年も後ながら強固な家父長制に縛られているマリアム(マリアム・アル・フェルジャニ)の方は「ママのスリップみたい」なドレスを躊躇しながら身に付けスマホと財布を入れた透明なバッグを携えるが、根にある主張は同じだろう。その後に自身で主催したパーティをあとにした時から翌朝に頭を覆わず前で結んだストールをマントのように翻し警察署を出るまでの彼女の地獄の一夜、いや言ってみればそれ以降の人生が描かれる。

警察に提出せねばならない診断書のために赴いた公立病院で、マリアムが国に虐げられている末端であることが分かる…がもちろん末端こそ最大なのである。ところどころに配置されている女性とのやりとりの中、妊娠中の女性警官に頼るも最後には衝突してしまう展開は、婦人科に「世間がよしと認める理由」で来る女とそうでない女(当初マリアムは婦人科医のところへ案内される)との対比のように思われた。チュニジアイスラム諸国では珍しく人工中絶を容認しているそうで処方箋なしで緊急避妊薬が買えるという話や日本でもずっと以前から(女の間では)話題の内診台での診察の様子などが出てきて余計に胸が絞られる。

全編通じて加害と被害の様相が大変にリアルな中、他の映画ではあまり見ないのが「ユースフ」という要素。パーティでマリアムに目を付けたこの青年は国を訴えさせるため目の前の彼女をいけにえにする。そんな相手でも男ばかりの環境においては頼らざるを得ない時があるというのが、これは他の映画でも見ることだが本当に辛い。終盤まで本人を蚊帳の外に物事が進行する異様さからは、このような酷い二次被害に耐えられるわけもなく黙っていた、黙っている無数の被害者の存在が察せられる。マリアムに問い詰められた彼が自分はゾンビ映画で襲われる存在のようなものだとはぐらかすのには苦笑も出なかった。