聖地には蜘蛛が巣を張る


マシュハドへやって来たジャーナリストのラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)はテヘランの職場での話からしても地続き極まりない世界を移動してきただけでそこでもどこでもよそものではない。加えて家長の保護を受けない、その元にはいない女、要するに今の私達からすれば「普通の女」である彼女と女を激しく憎んでいるサイード(メフディ・バジェスタニ)が、話半ばではバイクで直接接することになる。ラヒミが乗るのは死体の席だ。

映画は一人の娼婦が出勤の準備をしているのに始まる。エリアに着くとトイレでハイヒールに履き替えヒジャブから髪を一筋出す(のが「露出」というわけか)。その後の大変辛い仕事の描写は国や時代が変わっても同じようなものだろう。そして殺される。誰だって殺されてはいけないが何故辛い方の人が殺されるのか、馬鹿みたいな物言いだけど全くもって訳が分からずここから理不尽が爆発する。娼婦を殺すことは女全てを殺すことだというのがラストカットに表れている。

ラヒミを乗せたタクシーの運転手やサイードが並んでいる店の客といった街の男達が連続殺人について話す口ぶりに、女が殺されることに心配して「くれる」だなんてと違和感を覚えたものだけど、第一に人々は「殺人はいけない」と何となく捉えているだけで深く考えたことはないのだ。彼女が未婚の一人客と知ったホテルのスタッフの男性が同僚に相談するのは行動の規範がその内にないことを表している。後にサイードの釈放のために集まった男達も彼の妻の言うように「そのうち日常生活に戻る」だろう。こうした社会では物事は弱者をより踏み潰す方へ流れていく。第二にサイードを擁護・支持せず事件を憂う(だけの)男性がどれだけいようと、強力なミソジニーの前では役に立たない。

ムスリムの法学者は事件につき「売買春は社会的な問題だ」とはっきり言うが、犯人のミスを待っているなどと言ってのける警察を始め当の社会はどこまでも適当で、被害者は軽視という言葉もそぐわないほど存在を無視されている。イラン・イラク戦争に出征し戻ってから「自分は殉死する価値もないのか」と苛立ちを募らせているサイードが「聖戦」の果てに死刑に処される際にじたばたするのが私には滑稽に思われたが、彼にとって法とは正当なものじゃないんだろうか(法廷での姿を見ていればそれもそうか)。

…などと書きながらどこか変だという感じがする。このように諸々の感想を抱かせるがその外には出てこない映画に何の意味があるのか、今も人が殺されているのに。あるいは日本で見てもこの映画の真価は分からないのかもしれない(日本が「平和」だという意味ではなく映画環境の違い)。