マンディ 地獄のロード・ウォリアー



薬の一滴、針の一刺し、自分を見てほしいけれど何をどう見るかは制御したい。男の「お前が私を呼んだ(!)」「私はお前のことを理解している、お前も私のことを理解するだろう」「私は得られるべきものを得られなかった」なんて言葉が世界に蔓延する悪としてはっきり立ち上がってくるのは、昔の映画もそうだったのか、あるいは今の映画を今の私が見ているからなのか。


アンドレア・ライズボロー演じるマンディは登場時とラストのニコラス・ケイジの想像内においてモトリーのTシャツを着ている。80年代に子どもだった私はロックバンドのファンの女のファッションには二種類あると思っていた。彼らに性的に求められるのを目指すか仲間になるのを目指すか。特にモトリーのようなバンドの場合、後者は土台無理だし概ね前者になる。そのどちらでもない、ああいう格好をするのは自己が確立した大人の女。マンディはそういう女だから殺された。私にはそういう話に思われた。しかしそういう話、つまりマンディの話だとすると、ニコラス・ケイジは一体何なのか?


知人のメタルファンはカーペンターズが好きだったものだ。「カーペンターズもいいけど…」と曲を聞かされたマンディが笑うのは趣味の違いなどではなく、あれが「本物じゃない、何でもない」から。旧友との会話において、ニコラス・ケイジははっきりと「カルト集団だ」と口にする。無い方がいわば粋に違いないのに、こう断言することで、全編を彩る戯言が戯言でしかない、マンディのように笑い飛ばすべきものなのだということが強調される。そうしたことにより殺されるなら、満身創痍でこちらも戯言を駆使して挑むしかない。ケイジの役どころはそれである、一応。